瞑《つむ》っていた。
私はこの青年の礼拝の仕様があまりに不器用なので真面目なのか、冗談なのか見境がつかなかった。けれども、そんなことはどうでもいいのだから、兎《と》に角《かく》その青年を妨げぬよう、すこし離れて石碑へは斜に、私の礼拝の時の癖になっている未敷《みふ》蓮華と、それから開敷《かいふ》蓮華の道印を両手で結んで立ちながら、丁寧に頭を下げた。
私の素振りを横眼でちらりと見たようだった青年は、急に手を解き捨て膝を立ててしまった。その様子が、如何にも極《きま》りの悪いことをしていたのを早く止めたという風で気の毒に思えた。その青年はやや顔を赧《あか》らめさえして私の立去り際を押えて口籠って言った。
「仏教では、掌の合せ方は、いま、あなたのなさったようにするのですか。大変難かしいですね。恐れ入りますが教えて下さいませんか。どうぞ、どうぞ」
私はその求め方があまり唐突なので笑ってしまった。それから「失礼しました」と断って笑いを収め、
「いえ、別段、難かしいことはないのです。礼拝は心を統一さす為めの形式方法なのですから、めいめい自分に都合のよい手の合せ方をすればいいのです。けれども普通はこれです」
と言って普通の十指の合せ方をしてみせた。
「ほんとに、これでいいんですか」と自分も真似ながら頻りに不安がっている青年を私はどうやら会得《えとく》させて、先へ室を出てしまった。その青年は新らしく教えられた合掌の仕方でなお石碑に向って礼拝をしなおして居た様子だった。
町を歩き廻って夕刻少し前、停車場へ戻った。生憎《あいにく》と伯林行きの汽車は出てしまった後だった。次の汽車までは一時間はある。停車場の軒続きに覗くと清潔そうなレストーランがあるので、少し早いとは思ったが晩餐を済ますことにして其の店へ入って行った。
客は一人も居なかった。年寄ったウェーターが私を出張りの硝子《ガラス》囲いの側近くの卓に導いて呉れて、間もなく皿を運んで来た。私は程よく燃えているストーヴに暖められながら、いつの間にか氷雨が降っている硝子の外の景色を眺めながら悠《ゆ》っくりフォークを動かしていた。停車場前の広場に降る緩慢な氷雨を通して、町へ斜めに筋を通している寂しい主街《メーンストリート》に、うるみながら黄いろい灯がちらりほらり点《つ》いて行く。私は日本の東北の或る寒駅に汽車を待佗びている旅人のような気がして故国との距離感を暫く忘れたほど東洋的な閑寂な気分に引入れられた。その間、二三度伯林から汽車が着いて此の町の住宅へどやどやと帰って行く勤人の群集《マッス》が眼の前の広場を遮《さえぎ》り通るのもあまり気にならなかった。私はまた、日本の田舎の町辻にある涎掛《よだれか》けをかけた石の地蔵とか、柳の落葉をかぶっている馬頭観音とかいうものの姿が、直ぐ其処《そこ》らにでも見当るような親しさで、胸に思い出して居た。
硝子窓の外で、ぎらりと光った数珠《じゅず》の玉が眼に映ったのと同時に、この出張りの天井の電燈もついた。光った数珠の玉は連翹《れんぎょう》の撓《しな》った小枝に溜った氷雨か雫であった。そこに一台の自転車が錆びたハンドルだけ見せていた。
デザートを運んで来た給仕を何気なく見て私は驚いた。それは、さっき仏陀寺で遭った青年だった。今は給仕の服にエプロンをかけていた。青年はすこしの間でも客の女性を不審の中に置くまいとする気遣いらしく、少しあわて気味の早口で言った。
「先刻は失礼しました。私は此処の給仕人を勤めているものです。もっとも臨時雇ですが、――あなたにもっと仏教のことを伺い度《た》いと思いまして、あのおじいさんの給仕人に番を代って貰いました。だいぶ遠慮して差控えていたのですが、どうしても好き機会と思いましたので」
それから彼はマネージャの方を気にしながら、私の食事をサーヴィスしている形に見せつつ、彼の訊き度いと思う仔細を語った。
青年は名をベックリンと言って伯林商業大学の生徒だった。自活をしているので、仕事のあるときは多くその方を懸命に働き、学校は、言わば失業のときの暇つぶしですと言った。
「御承知でもありましょうが、いま独逸で私たちのような境遇の者の食って行く途《みち》は実に骨が折れるのです。こっちは何でもやるつもりですが仕事がありません。私たちの日課と言ったら朝起きて新聞の職業紹介欄を見て、目星しいものにサインを付け、それを一々自転車に乗って尋ね廻ることです。誰が先にその求人の事務所に乗りつけるか、まるで自転車競走です。そして一々すげなく断られて帰って来ます。そして朝飯のパンを噛《かじ》ります。もう習慣になっていますから、求職の一廻りをして、それからでないと朝飯が落着かないくらいです。然《しか》し自転車というものを見ると実に何とも言えない此の世に嫌気が
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