で他の部分が疲れて来るほど、愛慾の部分ははっきり目を覚して来るように思われます。この始末を仏教ではどうするのでしょう。私は断ち切り度いのです。だがこれだけはどうすることも出来ません。若しも、それが出来る呪文とか考え方とかがあったら教えて頂き度いのです。私は恋人を持って居ます」
私はもう立上って居た。斯ういう人と、需《もと》めとに対しては容易に答えられるものではない。私はふとヘルマン・ヘッセのシッダールタという本を思い起した。私はこの本を倫敦《ロンドン》にいたとき英訳で読んだのだが、その原著者は確かに独逸人である。この本の主人公シッダールタは、釈尊のコースを直線とすれば、これに対して弧形を描き、受難求道して幾分か大乗仏義を窺い得た形跡がある。
求道の手法としては吠陀《ヴェーダ》や婆羅門《バラモン》神学に拠《よ》るところが多いが、最後の到着は究竟《くきょう》の一味を持っている。大乗理想から見れば、肝腎の菩提心の一着だけは欠いているが、殊にこの著書の特色は、人間の愛慾に求道を終始連絡させているところである。この点基督教仕立ての西洋人の著書であり、また、西洋人に解脱《げだつ》を与えることも多かろう。独逸人をして独逸人を治めしめよ。私は心に微笑を覚えて言った。
「やっぱりあなたと同じ独逸人の宗教小説家でヘルマン・ヘッセという人があります。この人の著書の『シッダールタ』を読んでご覧なすったら如何です。多少参考になるかも知れませんから」
青年は素直に注文聴取簿に私の言ったこと、著者と書名を書き記していた。私は汽車に乗り遅れてはと、急いで停車場へ駆けつけた。
私は責任をヘッセの著書に譲り渡し、それで気が済んだつもりでいたが、そうは行かなかった。あれだけ虚無の魅力に牽付《ひきつ》けられた疲れた人間が、なかなか文学や説明や詩で蘇らせられようとは思えなかった。そこで三度目のフロウナウ町行きとなった。せめて青年のその後の様子だけでも見たいと思ったからである。停車場のレストーランへ行くと、青年は女の連れと一緒に仏陀寺へ行ったということだったので、私も不必要な仏陀寺へ三度目の参詣をした。
急に春めいて来て、町の街路樹はすっかり萌黄《もえぎ》の芽を吹き、家々の窓や墻根《かきね》から色々の花さえちらほら見えた。寒さからのがれた空はたるんで、暖かい光の中に痴呆性の眼の色のようにぼんやりし
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング