みせた。しかし社員たちはそれを遮《さえぎ》った。
「そんなことはまだるいや。堂島の家へ押しかけてやろうじゃないか」
「だから私、あの人の移転先が知りたいのよ。課長さんが見せて呉れた退社届に目下移転中としてあるからね」
 と加奈江は山岸に相談しかけた。
「そうか。品川の方の社へ変ると同時に、あの方面へ引越すとは言ってたんだがね、場所は何も知らないんだよ。だが大丈夫、十時過ぎになれば何処の酒場でもカフェでもお客を追い出すだろう、その時分に銀座の……そうだ西側の裏通りを二、三日探して歩けば屹度《きっと》あいつは掴まえられるよ」
 山岸の保証するような口振りに加奈江は
「そうお、では私、ちょいちょい銀座へ行ってみますわ。あんた告げ口なんかしては駄目よ」
「おい、そんなに僕を侮辱《ぶじょく》しないで呉れよ。君がその気なら憚《はばか》りながら一臂《いっぴ》の力を貸す決心でいるんだからね」
 山岸の提言に他の社員たちも、佐藤加奈江を仇討《あだう》ちに出る壮美な女剣客のようにはやし立てた。
「うん俺達も、銀ブラするときは気を付けよう。佐藤さんしっかりやれえ」

 師走《しわす》の風が銀座通りを行き交う人々の足もとから路面の薄埃《うすぼこり》を吹き上げて来て、思わず、あっ! と眼や鼻をおおわせる夜であった。
 加奈江は首にまいたスカーフを外套の中から掴み出して、絶えず眼鼻を塞《ふさ》いで埃を防いだが、その隙に堂島とすれ違ってしまえば、それっきりだという惧《おそ》れで直ぐにスカーフをはずして前後左右を急いで観察する。今夜も明子に来て貰って銀座を新橋の方から表通りを歩いて裏通りへと廻って行った。
「十日も通うと少し飽き飽きして来るのねえ」
 加奈江がつくづく感じたことを溜息と一緒に打ち明けたので、明子も自分からは差控えていたことを話した。
「私このごろ眼がまわるのよ。始終|雑沓《ざっとう》する人の顔を一々|覗《のぞ》いて歩くでしょう。しまいには頭がぼーっとしてしまって、家へ帰って寝るとき天井が傾いて見えたりして吐気《はきけ》がするときもある」
「済みませんわね」
「いえ、そのうちに慣れると思ってる」
 加奈江はまた暫《しば》らく黙ってすれ違う人を注意して歩いていたが
「私、撲られた当座、随分口惜しかったけれど、今では段々薄れて来て、毎夜のように無駄に身体を疲らして銀座を歩くことなんか何だか莫迦《ばか》らしくなって来たの。殊に事変下でね……。それで往く人をして往かしめよって気持ちで、すれ違う人を見ないようにするのよ。するとその人が堂島じゃなかったかという気がかりになって振り返らないではいられないのよ。何という因業《いんごう》な事でしょう」
「あら、あんたがそんなジレンマに陥っては駄目ね」
「でも頬一つ叩いたぐらい大したことでないかも知れないし、こんなことの復讐なんか女にふさわしくないような気がして」
「まあ、それあんたの本心」
「いいえ、そうも考えたり、いろいろよ。社ではまだかまだかと訊くしね」
「それじゃ私が一番お莫迦さんになるわけじゃないの」
 明子は顔をくしゃくしゃにして加奈江に言いかけたが、堂島に似た青年が一人明子の傍をすれ違ったので周章《あわ》ててその方に顔を振り向けると、青年は立止まって
「何ていう顔をするんですか」と冷笑したので明子はすっかり赤く照れて顔を伏せてしまった。青年はうるさくついて来た。加奈江と明子はもう堂島探しどころではなかった。二人はずんずん南へ歩いて銀座七丁目の横丁まで来た。その時駐車場の後端の方に在った一台のタクシーが動き出した。その中の乗客の横顔が二人の眼をひかないではいなかった。どうも堂島らしかった。二人は泳ぐように手を前へ出してその車の後を追ったが、バックグラスに透けて見えたのは僅かに乗客のソフト帽だけだった。
 それから二人は再び堂島探しに望みをつないで暮れの銀座の夜を縫《ぬ》って歩いた。事変下の緊縮した歳暮はそれだけに成るべく無駄を省いて、より効果的にしようとする人々の切羽《せっぱ》詰まったような気分が街に籠《こも》って、銀ブラする人も、裏街を飲んで歩く青年たちにも、こつん[#「こつん」に傍点]とした感じが加わった。それらの人を分けて堂島を探す加奈江と明子は反撥《はんぱつ》のようなものを心身に受けて余計に疲れを感じた。
「歳の瀬の忙しいとき夜ぐらいは家にいて手伝って呉れてもいいのに」
 加奈江の母親も明子の母親も愚痴《ぐち》を滾《こぼ》した。
 加奈江も明子も、まだあの事件を母親に打ちあけてないことを今更、気づいた。しかしその復讐のために堂島を探して銀座に出るなどと話したら、直《ただち》に足止めを食うに決まっている――加奈江も明子も口に出さなかった。その代り「年内と言っても後四日、その間だけ我慢して家にいまし
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