を貰ってやめたのだしねえ。それに住所目下移転中と書いてあるだろう。何から何までずらかろう[#「ずらかろう」に傍点]という態度だねえ。君も撲られっ放しでは気が済まないだろうから、一つ懲《こら》しめのために訴えてやるか。誰かに聞けば直ぐ移転先きは分るだろう」
課長も驚いて膝を乗り出した。そしてもう既に地腫も引いて白磁色に艶々《つやつや》した加奈江の左の頬をじっとみて
「痕《あと》は残っておらんけれど」と言った。
加奈江は「一応考えてみましてから」と一旦、整理室へ引退った。待ち受けていた明子と磯子に堂島の社を辞《や》めたことを話すと
「いまいましいねえ、どうしましょう」
磯子は床を蹴って男のように拳《こぶし》で傍の卓の上を叩《たた》いた。
「ふーん、計画的だったんだね。何か私たちや社に対して変な恨みでも持っていて、それをあんたに向って晴らしたのかも知れませんねえ」
明子も顰《しか》めた顔を加奈江の方に突き出して意見を述べた。
二人の憤慨とは反対に加奈江はへたへたと自分の椅子に腰かけて息をついた。今となっては容易《たやす》く仕返しの出来難い口惜しさが、固い鉄の棒のようになって胸に突っ張った苦しさだった。
加奈江は昼飯の時間が来ても、明子に注いで貰ったお茶を飲んだだけで、持参した弁当も食べなかった。
「どうするつもり」と明子が心配して訊《たず》ねると
「堂島のいた机の辺りの人に様子を訊《き》いて来る」と言って加奈江はしおしおと立って行った。
拓殖会社の大事務室には卓が一見縦横乱雑に並び、帳面立ての上にまで帰航した各船舶から寄せられた多数の複雑な報告書が堆《うずたか》く載っている。四隅に置いたストーヴの暖かさで三十数名の男の社員達は一様に上衣《うわぎ》を脱いで、シャツの袖口をまくり上げ、年内の書類及び帳簿調べに忙がしかった。加奈江はその卓の間をすり抜けて堂島が嘗《か》つて向っていた卓の前へ行った。その卓の右隣りが山岸という堂島とよく連れ立って帰って行く青年だった。
加奈江は早速、彼に訊いてみた。
「堂島さんが社を辞めたってね」
「ああそうか、道理で今日来なかったんだな。前々から辞める辞めると言ってたよ。どこか品川の方にいい電気会社の口があるってね」
すると他の社員が聞きつけて口をはさんだ。
「ええ、本当かい。うまいことをしたなあ。あいつは頭がよくって、何でもはっきり割り切ろうとしていたからなあ」
「そうだ、ここのように純粋の軍需品会社でもなく、平和になればまた早速に不況になる惧《おそ》れのあるような会社は見込みがないって言ってたよ」
山岸は辺りへ聞えよがしに言った。彼も不満を持ってるらしかった。
「あの人は今度、どこへ引っ越したの」
加奈江はそれとなく堂島の住所を訊き出しにかかった。だが山岸は一寸|解《げ》せないという顔付をして加奈江の顔を眺めたが、直ぐにやにや笑い出して
「おや、堂島の住所が知りたいのかい。こりゃ一杯、おごりものだぞ」
「いえ、そんなことじゃないのよ。あんたあの人と親友じゃないの」
加奈江は二人の間柄を先《ま》ず知りたかった。
「親友じゃないが、銀座へ一緒に飲みに行ってね、夜遅くまで騒いで歩いたことは以前あったよ」
「それなら新しい移転先き知ってるでしょう」
「移転先って。いよいよあやしいな、一体どうしたって言うんだい」
加奈江は昨日の被害を打ち明けなくては、自分の意図が素直に分って貰えないのを知った。
「山岸さんは堂島さんがこの社を辞めた後もあの人と親しくするつもり。それを聞いた上でないと言えないのよ」
「いやに念を押すね。ただ飲んで廻ったというだけの間柄さ。社を辞めたら一緒に出かけることも出来ないじゃないか。もっとも銀座で逢えば口ぐらいは利くだろうがね」
「それじゃ話すけれど、実は昨日私たちの帰りに堂島が廊下に待ち受けていて私の顔を撲ったのよ。私、眼が眩《くら》むほど撲られたんです」
加奈江はもう堂島さんと言わなかった。そして自分の右手で顔を撲る身振りをしながら眼をつむったが、開いたときは両眼に涙を浮べていた。
「へえー、あいつがかい」
山岸もその周《まわ》りの社員たちも椅子から立上って加奈江を取巻いた。加奈江は更に、撲られる理由が単に口を利かなかったということだけだと説明したとき、不断おとなしい彼女を信じて社員たちはいきり出した。
「この社をやめて他の会社の社員になりながら、行きがけの駄賃に女を撲って行くなんてわが社の威信を踏み付けにした遣《や》り方だねえ。山岸君の前だけれど、このままじゃ済まされないなあ」
これは社員一同の声であった。山岸はあわてて
「冗談言うな。俺だって承知しないよ。あいつはよく銀座へ出るから、見つけたら俺が代って撲り倒してやる」
と拳をみんなの眼の前で振って
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