母親は四つに折った書簡箋をそっと抜き出して拡げた。
「声を出して読みなさい」
父親は表情を緊張さした。
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勇ましいおたより、学生時代に帰った思いがしました。毎晩パンツ姿も凜々しく月光を浴びて多摩川の堤防の上を疾駆するあなたを考えただけでも胸が躍ります。一度出かけて見たいと思います。それに引きかえこの頃の私はどうでしょう。風邪ばかり引いて、とてもそんな元気が出ません……
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「へえ、そりゃほんとうかい」
父親はいつもの慎重な態度も忘れて、頓狂《とんきょう》な声を出してしまった。
「まあ、あの娘が、何ていう乱暴なことをしてるんでしょう。呼び寄せて叱ってやりましょうか」
母親は手紙を持ったまま少し厳しい目付きで立上りかけた。
「まあ待ちなさい。あれとしてはこの寒い冬の晩に、人の目のないところでランニングをするなんて、よくよく屈托したからなんだろう。俺だって毎日遅くまで会社の年末整理に忙殺されてると、何か突飛なことがしたくなるからね。それより俺は、娘の友達が言ってるように、自分の娘が月光の中で走るところを見たくなったよ…………俺の分身がね、そんなところで走ってるのをね」
「まあ、あんたまで変に好奇心を持ってしまって。でも万一のことでもあったらどうします」
「そこだよ、場合によったら弟の準二を連れて行かせたら」
「そりゃ準二が可哀そうですわ」
「兎も角、明日月夜だったら道子の様子を見に行く」
「呆れた方ね、そいじゃ私も一緒に行きますわ」
「お前もか」
二人は真剣な顔をつき合せて言い合っていたが、急に可笑しくなって、ははははははと笑い出してしまった。二人は明日の月夜が待たれた。
道子には友達からの手紙は手渡されなかったし、両親の相談なぞ知るよしもなかった。ただいつも晩飯前に帰らない父親が今日は早目に帰って来て自分等の食卓に加わったのが気になった。今晩お湯に行きたいなぞといえば母親が一緒に行くと言うかも知れぬ。弱った。今日は午前中に雨が上って、月もやがて出るであろう。この好夜、一晩休んで肉体が待ち兼ねたようにうずいているのに。段々遅くなって来ると道子はいらいらして来て遂々《とうとう》母親に言った。
「お湯へやって下さい。頭が痛いんですから」
母親は別に気にも止めない振りで答えた。
「いいとも、ゆっくり行ってらっしゃい
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