嘘です。私はあなたを、どうかして独自性のある立派な画家に仕立てたかつたのです」桂子は堪らなくなつて、思はず小布施の半ば剥いでゐた掛蒲団に手をかけて、「たゞそれだけだつたのよ。利己的や遊戯的の気持なんか微塵もなかつたのよ」
 小布施はだん/\疲れて来た。
「嘘ぢやない本当です。そしてそれは擬装した愛なのだ。生命量の違ふものゝ間に起る愛は悲惨だ」
 今は桂子も小布施のいふことが或ひは尤もかとも思へた。だが、それよりも何よりも、小布施がもはや自分に全く関係のない人間であるのに気付いて、俄かに泣き崩れて仕舞つた。
「けど、私はあなたのいふやうな強いばかりの女ではありません。もう何も張り合ひがなくなりました」
 小布施は体に一つ大きく息を入れて起き上り、憐み深く桂子の肉付きのいい背を撫でながら、
「なんだ/\。大きな体をして、三十八にもなつて、美人の癖に。ちよつとの間は辛らからうが、君の弾力性が承知しないよ。君はまたぢきにむく/\と起き上るから」
 桂子はいふべきことをいはねばならぬと思つた。
「せん子とのことは、あれは私に面当てなの?」
「いや、さうぢやない」と小布施は撫でゝゐた手をぴたりと止めた。暫くして、またそろ/\撫でながら、「云はゞ自然の意志に従つたといふのだらうな。すべてこの世で未完成だつた人間に、自然は一人の子供でも残させなけりや……」
 小布施は疲れ切つて、またベツドへ横になり、爪先を立て、寝ながらいくらか反身になつた。そして額に手を組んで誰にいふともなく、
「僕の子供の育つ時分には、医術が発達して、結核なんかはたいして体の毒にはならんだらうな……」


 Q――芸館借入れの不調や、小布施の事件で、桂子が無気力虚脱に過ぎてゐた一年の間に、桂子の信用や名声は高められ、Q――芸館からむしろ懇望の形で桂子の大会は迎へられた。
 桂子自身はもはやその幸運にさほどの感動もうけなかつた。「出来るときは、もう要らないときだ」とは桂子がいつも物事の運びの上に感ずることだつた――が、結局桂子は無気力から立ち上る力が必要だつた。
 丹花を銜みて巷を行けば、畢竟、惧れはあらじ。
 友の書いて呉れた詞句に依るべく、桂子は花を銜むといふより、むしろ花に噛みつき、花へ必死に取り縋つた。
 そこに必然性以上の気力が湧き、卓越した思考力が与へられた。


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茲で一応読者の前に桂子の花に対する愛と理解を原則的に纒めて見ると、大体かうである。
花の色はどれもみな花の生命から直接滲む精色である。人工で練つた絵の具より、より純粋な色飾、花をもつて桂子は自分の絵を描き度い。==人工の絵の具には反対色があり、往々不調和に反撥する。花に於ては花自体の物体色が取りも直さず太陽の光線が映す色光である。花の色一々が原色に於て濃淡のヴアリユーを出してゐる。二つのものに分けられない。分けたときはもう花ではない。そして混ぜ合された間色と見えるものもいつも最大色度の純度である。最純度なるものは、如何に混然雑然と組まれても、反撥、牴触、不調和等が無い。故に花は一つでも寂しくなく、沢山寄つても煩さくない。==花の姿と形、それは万有そのものゝ理想である。この世界では性器さへ荘厳され得る。桂子はバルザツクの「知られざる傑作」の主人公である画家が、絵画の絶対の完成を求めてその画布を人間の眼には何物とも判じ得られぬ狂的な形象に塗殺し尽して仕舞つた記述を読んで、悲涙を流した。その涙が止んだとき桂子は、切実にこの主人公に花といふものを知らせ度い欲望に駆られた。==夜中にふと眼を醒まして闇の中にまさぐつて見る花の姿、何といふデリカで秘密な感触の歓びであらう。==花には見るものゝホルモン線を芸術的に刺戟する作用がある。(だから私は若いのだらうかと桂子は思ふ)==茲でこの小説の作者は東洋の古い経典に花を説明して、「それは人生のあらゆる苦難を忍んで理想の種子を養ひ育て、やがてそこに開敷する完成の人格を宇宙が植物に於て象徴されたものだ」また一花を愛することは未就身が無意識に於て成就身を嘆慕することである」と書いてあつたのを、桂子が花に対する註解に付記する。そして、更に、また桂子自身の「たとへ小米の花の一輪にだに全樹草の性格なり荷担の生命を表現してゐる。地中のあらゆる汚穢を悉く自己に資する摂取として地上陽下に燦たる香彩を開く、その逞しき生命力。花は勁し」といふ主観をも書き足して置く。
[#ここで字下げ終わり]


 さて、いよ/\桂子の花で描いた絵の公開展である。それはQ――芸館の階上階下、全部の室々を当てゝ開展されたのである。
 その主なるものを茲に紹介すれば、
 階下==玄関衝立代りとして、漆塗り大船型の器に截り据ゑた松の大幹、その枝々に揺れる藤浪。マホガニイ、白真鍮、鼠色大理石の材料で成層圏の印象を与へる炉を作り、マントルピースの上には紅木爪が寂しく一枝。窓際=如輪木の胴に赤銅の箍を嵌めた酒筒から、大小二本の蔓の根が窓框を捲いて延び上り、緊密な濃緑色の葉立ちの陰に、練絹へルビーを包んだやうな小花を綴るびなんかつら[#「びなんかつら」に傍点]。床の一隅、幽欝な鉛製の八つ橋の角々に、王朝時代の情熱を想はせる燕子花。
 階上==階段を昇り詰めた取付きの右=小丘がある……否、小丘の如き素焼の大器に、それよりもなほ広い輪郭に枝葉を張つた樹齢幾十年の大紅椿の一株活け。同じく左=籐製の大鳥籠に鳥の代りに三彩の南洋花が囀つてゐる。円柱の陰=其処の菱提灯に薄紫のリラの一房が灯つてゐる。壁の一ヶ所に張り出たボツクスの上の几帳面な薄端に聖者風の枯葦とそれに献花してゐるやうな海竿三輪。と見る真正面の大花壇は、後に月の出の白光の照明、前は太陽のやうな牡丹花の大花群。
 三階==黒書院の大床。百済観音の右手が施無畏の印を示しながら、尊式の口の麻の花に均衡《つりあ》つてゐる。背景には雪村軸の夏景山水。脇床=洒脱な松皮菱の花器に、鹿鳴館時代の華奢を偲ばせる黄ばら。紅ばら。
 茶室==小床にたつた一つ、古油壺に莢になりかけた菜の花。背景=八大山人作蘭の光筆画。
 とある廊下の一角==白磁の大水盤に紅白カーネーシヨンの群花入り乱れたる「戦ひの図」
 食堂==ミユンヘン国立ビール飲用場の陶製ジヨツキーに石楠花、すかし百合、耳付一輪挿にマーガレツト、スヰートピー。ヴヱニス硝子大皿に金魚藻と水蓮。
 花には一々表題がついてゐた。葦屋の宇奈比処女。竪琴。たゞごと歌。フアーストの沈思。わび栞り。白髪。文芸復興時代。放牧。ジヨルジユ・サンド。寧楽。ゴシツク。紫式部。初恋。大饗宴。押韻の詩。等まだ/\数へ切れない。
 特別室がある。大広間。弟子達の諸作とやゝ離れた一場に、この大会中特に評判作になつた二作がある。一つの名は「揺籠」、一つは「柩」と題するもの。銑鉄と人造維質で可憐な揺籠が編まれ、縁にチユーリツプの莟の球が一つ挿され、一見至極単純に見えて雅純新鮮な効果を出し、大形の柩は、材に秩父産の蛇紋石を用ゐ、中を人型に開《あ》けて、底に軟い鈴蘭が安らかに活けてある。
 この日桂子は殆ど純白とも見える薄青い洋装をしてゐた。その服装はどの活花の傍に桂子が立つても少しも色調に抵触しなかつた。桂子は絶えず微笑し乍ら、都会の諸方から集まつて来る観衆に交つてゐた。たま/\知人に逢つて褒祝の言葉に逢へば、桂子は頭を下げて謝辞を返した。桂子の勇気ある新興芸術の報道にあらゆる激励の辞を用意するといふ新聞記者達にも。
 夜。会場に人は絶えた。自宅から自動車で迎へに来たせん子は、赤子を抱いたまゝ会場を廻つたので疲れて、今食堂で何か飲物を摂つてゐる――桂子はたゞ一人闇空の下に立ち現はれてQ――芸館の屋上庭園を靴の底に踏み締めた。
 ……………
 ……………
 小布施さん……桂子はハンカチを眼に当てゝよゝ[#「よゝ」に傍点]と泣いた……小布施さん……
 だが、死んだ小布施の名を呼びながら、桂子の涙は、実は桂子自身の異常な運命や悲痛な忍苦、はげしい潜情に向けて送られてゐる。
 だが、ふと桂子は気づいた。
 桂子の足下に在る全館の花々は、今一斉に上なる桂子を支へてゐる。
 それこそは桂子自身の生命が、更に桂子の生命を支へ上げんとする健気な力、そして永遠に新しき息吹である。
桂子はもう泣いてゐなかつた。
「花は勁し」
と云つて、桂子は大きく頷いた。夜風が徐ろに桂子の服の裳を揺ると、桂子それ自身が一つの大きな花体となつて佇つてゐるのであつた。



定本:「岡本かの子作品集」沖積舎
   1990(平成2)年7月20日初版発行
   1993(平成5)年6月30日新装版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:松下哲也
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
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