たやうな愛感が熱く身に沁み出るのを覚える。かの女は先づ桑子に握手してやるのであつた。それからいふ。
「桑子! まあ、いゝから/\!」
これも桑子のやり過ぎた仕業の一つとして、椽側の金魚の硝子箱は綺麗に掃除され、折角青みどろの溜つた水は、截りたての晒木綿のやうな生《き》の水に代へられてあつた。しかし、桂子はこれも夏向きの季節柄悪くはないと思つた。そして暫く忙しくて眼にとめてゐられなかつた庭や椽先の光景を、しんみりと眺めた。
庭一面にぐんと射当てゝ、ぐんと射返す初夏の陽光は、椽側にも登り、金魚の硝子箱を横から照らして、底の玉石と共に水を虫入り水晶のやうに凝らしてゐる。眩しがる二|尾《ひき》のキヤリコの金魚は、多少怪訝の動作を鰭の角々のそよぎに示しながら、急に代つた水の爽快さを楽しむらしかつた。
キヤリコは白紗のやうな鰭に五彩の豹紋を撒いた体を、花と紊し房に紋つてゐる[#「紋つてゐる」はママ]。縞馬は相変らず硝子箱の外側に口を触れて、琥珀の眼を円らにしてゐる。蓋の上の花瓶には青一束ねの麦の穂が挿してある。
眠くても眠り切れない興奮と困憊の異様な混濁の上に、まだ/\先に困難を控へてゐるのを予覚すると、こゝろが却つて生々として来て愉しくないこともない。私は一体どういふ女なのだらう。闘志にさへ時にうづく快感を覚えるなんて……。そのうち桂子はだん/\半睡半眠にひき入れられて行つた。瞳孔が弛緩し、目蓋が重く垂れて来るのを、そのまゝにしてゐると、とき/″\反射的にこれを撥ね返す神経があつて、その度に蛍いろに光る桂子の意識の眼に、庭の花が逞しく触れて来た。
庭には葉桜を背景にして、大和国分尼寺の遠州系の庭を縮模した、女性的で温雅な池泉が望まれる。目の前のすぐ椽先に大きな花壇がしつらはれ、教へ子や出入りの花屋が、根付きのものを持つて来たり、温室仕立ての鉢の咲き越したのを埋めて行つたりして、それが季節を違へたり、または季節を守つて四季ともに、撩雑に咲く。教へ子たちは、「花の姨捨山」とも、「花の百軒店」ともいつてゐるが、やはり初夏が一ばん花の盛りである。
桂子がうつら/\と夢に入り夢を出るすれ/\の境に、ポツピー、ルピナス、小判草、躑躅、アスター、スヰートピー、アイリス、鈴蘭、金魚草、アネモネ、ヒヤシンス、山吹、薔薇、金雀児《えにしだ》、チユーリツプ、花菱草、シヤスター、[#「、」に「ママ」の注記]デージー、松葉菊、王不留行《わうふるぎやう》、ベ[#「ベ」に「ママ」の注記]チユニヤなど――そしてこれ等の花々は白、紅、紫、橙いろ、その他おの/\の色と色との氈動を起して混り合ひ触れ合つて、一つの巨大な花輪となる――すると幾百本、幾千本とも数知れない茎や葉や幹は、また合して巨大の茎となり葉となり幹となつて、一つの大花輪の支へとなる。
其処に力声が発する。
「吽《うん》! 吽《うん》!」
白玉の汗が音もなく滴り落ちて大地に散り浸む。大地はいつの間にか透けて、地中で白玉の数本の根枝に纒められて、地上のものを、また支へてゐる巨根がカツーン映画の影像のやうに明かに覗かれる。其処から力声が出る。
「吽《うん》! 吽《うん》!」
これは人類に機械的神秘性の体系を立てようとしたジユールロマン[#「ジユールロマン」に「ママ」の注記]の旧いユナニミズムの精舎《アベイ》の姿かと、桂子は夢との境の半意識の裡に想ふ。
「――」
これは詩人クローデルが大胆不敵にいひ除けた、「主は現代の停車場にも、劇場にもある」といつた、韻致カソリシズムの象徴かと桂子は想ふ。
その他、「何々」「何々」
「――」「――」
桂子が芸術に携はつてからの生涯の折々に、かの女の息を詰める程に感銘させ、すぐまた急ぎ足に去つて行つたいくつかの思想、――それはどんなすさまじい意気のものであらうが、不思議なことには、みな優しい女を労る女性尊重《フエミニズム》の天鵞絨のやうな触手を持つてゐた。それらが、いま桂子の夢の意識のなかに歴訪する。
「――」「――」
花は一つも頷かない。
たゞ、「吽! 吽!」と力声を出して、白玉の汗をきらり/\滴らしてゐる。
ひよつとしたら花は思想以前のものであらうか、実感上に蟠る、無始無終、美の一大事因縁なのではあるまいか。一大因縁なるがゆゑに、誰人もこの美をどうすることも出来ない。とすれば、それは既に地上の重大な力でもあるか。
高雅で馥郁として爽かにも物錆びた匂ひがする。稽古所の方で教へ子たちが水上げをよくするため、切花の芍薬の根を焼いてゐるのだと、うつら/\夢から覚め際の桂子は想ふ。桂子の心はしめやかに全意識を恢復して来る。すると、夢のなかの巨大な花は、徐ろに現実の一つ一つの花壇の花となつて一つの巨輪から分裂し、もとの花壇のめい/\の位置に戻つた。
せん子が庭先にぼんやり停つてゐる。
「どうしたの」
と訊くと、腰をかゞめてちよつとはにかん[#「はにかん」に傍点]だ余所《よそ》行きのお叩頭をした。その褄外れの用心深さ、腰の手際よき纒め方、袖口を気にする工合、家にゐた時とは別人のやうである。それにも増して桂子のと[#「と」に傍点]胸を衝いたのは、小娘の物憂い表情の中に、覚悟と誇らしげなものを潜めてゐたことだ。
しじゆう弟子に大勢の処女を扱ひつけ、その上、十六年間花に捧げたつもりで禁慾生活を続けて来た桂子には、人並以上性的鑑識感覚が鋭くなつてゐた。桂子は姪をもはや肉身の伯母の自分すらどうすることも出来ない、一人前の女になつたと、直ぐ見て取つた。何の秘するところもなく親愛し合つた独身女と処女との間柄に段が出来た。そしてこのせん子の相手は? ――「しまつた」とかの女は胸に焼鏝を当てた。
「せん子、なぜ上らないの」
「あの、そこまで小布施さんのお買物に来ましたの……」
せん子は小布施の名前をわざと白々しく、声高にいふほど度胸が据つてゐた。桂子の方が却つてしどろもどろになつた。
「では、こゝへでも腰をおかけな」
椽側の金魚の鉢の傍へ座蒲団を出してやつた。自分の相手の他人行儀を庇つて、つい他人行儀に振舞ふのを不思議に思ひながら。
せん子のいふところによると、小布施の経過はあまりよくなかつた。結核患部にX光線をかけて貰ふのが唯一の頼みであるのを、小布施はどうしても専門病院に入院を肯じないといふのである。
毎朝鶏の鳴く頃になると、腹の患部は激しく痛み出す。
「痛むときは泣き笑ひしながら、茶を飲んで死ぬるばかりだ、ときまつて仰云るのよ。心細いたらありやしません。けども、あんな立派な体格をして、あたし、絶対そんなこと信じられないわ」
必ず自分の熱誠で男を助けて見せるといふ哀切な息使ひが、せん子の言葉以上に桂子を刺戟した。いままで恋愛ではないと云つてゐた小布施と桂子の交情に、桂子が顧みていくらか忸怩としてゐたことは、男からの体臭的慰安だつた。小布施の普通より大柄の体格が、ネルのやうに柔い乾草のやうに香ばしい体臭を持つてゐた。彼の持病持ちの体質の弱点から薫じ出るものらしい。それは必ずしも、傍に居ずとも頭に想ふだけで、桂子は心が和《なご》められた。小布施の体臭からうけるこの影響は、時間も距離も超越してゐた。桂子は殆ど地球の裏と表とに距る大西洋を渡る帰朝途上のアメリカ近くの汽船中で彼を嗅ぐことが出来た。すると、安らかに婦人専用船室のベツドで眠れた。
仕方がない――何も直接に皮膚に触れ合ふわけではなし――。花にばかり捧げると誓つた桂子の貞操が、こんな言ひ訳を時々自分に向けてしてゐたのだつた。
何といふことであらう。たゞ、それ程あつさりした間柄と思つてゐた男を、あの体臭ぐるみ他人に独占されたとなると、むら/\と苦痛に絶する焔が肉体の内部を転動させて、長年鍛へた魂の秩序も、善悪の判断も、芸術への殉情も一挙に覆りかけるとは――。
だが、かの女として小布施をもせん子をも咎める筋はなかつた。小布施がかの女の愛人と烙印されてゐるわけでもなく、単に物資の被補助者である以上、ほかの女性との間に愛が生れやうと、結婚しようと自由である。姪は伯母のものを奪つたとは云へなかつた。小布施との交情について、せん子の伯母への遠慮は、たゞ表白の機会に達しないだけの慎しみに過ぎない。
「小布施さん此頃私に何か用で逢ひ度いと云つてゐなかつたかね」桂子は必死にさあらぬ態を装つて訊いた。
「いゝえ、別に――あゝ、さう/\近頃煎茶がとても好きになつたから、良い煎茶があつたら貰つて来て呉れつて――」
桂子は煎茶の箱を探して、それと当分の費用の金包みを添へてせん子に渡してやつた。せん子は小ぢんまりした若妻のやうな後姿を見せて帰つて行つた。
「せん子の帰らないうちに早く聴かせて頂戴。私はせん子にこんな話をちつとでも知せたくはないから」と桂子はいつた。小布施の病室である。桂子は思ひあまつて、忙しい中を訪ねて来た。せん子がいつも銭湯に行く習慣の夜更けを知つて来たのを、桂子はつく/″\自分も人の留守を覗ふ身分になつたかと情なく感じた。
「頭も悪くなつてるし、もう何も彼もどうでもいゝと思つてるし、返事をするがものはないが――」
小布施は枕を支へにやつと腹匍ひになつた。
「訊くなら云つてもいゝ。君と僕は昔から本当は愛し合つてたのだ。」
小布施はまるで他人事のやうに淡々といつた。
「私も急にそれに気がついたの。でも、どう考へても永い年月の間に結婚する気が起らなかつたの」
桂子も相手の調子に並んで声だけ淡々とさせていつた。
「不思議な同志さ。君には何か生れない前から予約されたとでもいふ、一筋徹つてゐる川の本流のやうなものがあつて、来るものを何でも流し込んで、その一筋をだん/\太らして行く。それに引き代へ、僕は僅かに持つて生れた池の水ほどの生命を、一生かゝつて撒き散らしてしまつた――」
小布施はいよ/\肉体さへ枯れて行くやうな嗄れ声で、番茶に咽喉を潤しながら語つた。
彼は人間の本能は悧巧のやうで馬鹿、馬鹿のやうで悧巧、何とも判らないといふ。彼は最初から桂子を愛しながら、桂子の生命の逞しい流れにたゞ降服してゐるだけだつた。根気よく寸断なく進んで川幅を拡めて行く生命の流れの響きを聞くものは、気が気でないものだ。まして、定り切つた水量を撒き散らす運命に在る人間に取つては、自分のものを端から減されるやうに、一層こゝろを焦立たされる。
「君が最初に描いた画は牡丹の絵だつた。僕はそれを見て、単なる画では現はし切れない不思議なものが欝勃としてゐるのにびつくりした。そこにはカンヴアスの上の絵画を越えた野心が、はげしい気魄となつて画面に羽搏つてゐた。そこで僕は思はずこれは画ぢやないと怒鳴つた」
「さう、花が青ざめて燃えてゐるやうな白牡丹の絵でしたね」
その絵の意図は根気よく追求したら絵画部門で将来性を見出すものかも知れない。或は全然芸術の方途を誤つてゐるものかも知れない。けれども、そこまで眼を通さないうちに小布施の本能は排撃してしまつたのであつた。
「仕方ないよ。人間には感情でもなく理智でもなく、むら/\としたものが湧き上つて、自分でおやと思つてるうちもう行動を起してゐることがあるよ」
小布施はせん子とのことで自分の命のコースから桂子を逐ひ除けて、ほつとしたと同時に、理由のない寂しさに充たされた。
「逞しい生命は」と小布施はまたいつた。
「弱い生命を小づき廻すものだ。小づき廻すといふに語弊があつたら寵《ちよう》して気にして弄《いぢ》くつて仕方のないものだ。ちやうど、こどもが銭亀を見つけたやうに、水に泳がしたり、桶の椽に匍はしたり、仰向けにしてみたり、自分と同じ大きさの人間でないのが気になるのだ」
小布施は欧洲の桂子から精力的に書き寄越した新興画派の紹介なり、自説の感想なり、意見なりに、どの位悩乱され衝動されたか知れないのであつた。桂子はそれ等を流行着として、着ては脱ぎ捨てる。小布施は一々それに肉体や精神を截ち直しては着合せようとする。結局、一定の定つた生命の水量を撒き散らす彼の運命に役立つことであつた。
「嘘、
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