何でも流し込んで、その一筋をだん/\太らして行く。それに引き代へ、僕は僅かに持つて生れた池の水ほどの生命を、一生かゝつて撒き散らしてしまつた――」
 小布施はいよ/\肉体さへ枯れて行くやうな嗄れ声で、番茶に咽喉を潤しながら語つた。
 彼は人間の本能は悧巧のやうで馬鹿、馬鹿のやうで悧巧、何とも判らないといふ。彼は最初から桂子を愛しながら、桂子の生命の逞しい流れにたゞ降服してゐるだけだつた。根気よく寸断なく進んで川幅を拡めて行く生命の流れの響きを聞くものは、気が気でないものだ。まして、定り切つた水量を撒き散らす運命に在る人間に取つては、自分のものを端から減されるやうに、一層こゝろを焦立たされる。
「君が最初に描いた画は牡丹の絵だつた。僕はそれを見て、単なる画では現はし切れない不思議なものが欝勃としてゐるのにびつくりした。そこにはカンヴアスの上の絵画を越えた野心が、はげしい気魄となつて画面に羽搏つてゐた。そこで僕は思はずこれは画ぢやないと怒鳴つた」
「さう、花が青ざめて燃えてゐるやうな白牡丹の絵でしたね」
 その絵の意図は根気よく追求したら絵画部門で将来性を見出すものかも知れない。或は全然芸術の方途を誤つてゐるものかも知れない。けれども、そこまで眼を通さないうちに小布施の本能は排撃してしまつたのであつた。
「仕方ないよ。人間には感情でもなく理智でもなく、むら/\としたものが湧き上つて、自分でおやと思つてるうちもう行動を起してゐることがあるよ」
 小布施はせん子とのことで自分の命のコースから桂子を逐ひ除けて、ほつとしたと同時に、理由のない寂しさに充たされた。
「逞しい生命は」と小布施はまたいつた。
「弱い生命を小づき廻すものだ。小づき廻すといふに語弊があつたら寵《ちよう》して気にして弄《いぢ》くつて仕方のないものだ。ちやうど、こどもが銭亀を見つけたやうに、水に泳がしたり、桶の椽に匍はしたり、仰向けにしてみたり、自分と同じ大きさの人間でないのが気になるのだ」
 小布施は欧洲の桂子から精力的に書き寄越した新興画派の紹介なり、自説の感想なり、意見なりに、どの位悩乱され衝動されたか知れないのであつた。桂子はそれ等を流行着として、着ては脱ぎ捨てる。小布施は一々それに肉体や精神を截ち直しては着合せようとする。結局、一定の定つた生命の水量を撒き散らす彼の運命に役立つことであつた。
「嘘、嘘です。私はあなたを、どうかして独自性のある立派な画家に仕立てたかつたのです」桂子は堪らなくなつて、思はず小布施の半ば剥いでゐた掛蒲団に手をかけて、「たゞそれだけだつたのよ。利己的や遊戯的の気持なんか微塵もなかつたのよ」
 小布施はだん/\疲れて来た。
「嘘ぢやない本当です。そしてそれは擬装した愛なのだ。生命量の違ふものゝ間に起る愛は悲惨だ」
 今は桂子も小布施のいふことが或ひは尤もかとも思へた。だが、それよりも何よりも、小布施がもはや自分に全く関係のない人間であるのに気付いて、俄かに泣き崩れて仕舞つた。
「けど、私はあなたのいふやうな強いばかりの女ではありません。もう何も張り合ひがなくなりました」
 小布施は体に一つ大きく息を入れて起き上り、憐み深く桂子の肉付きのいい背を撫でながら、
「なんだ/\。大きな体をして、三十八にもなつて、美人の癖に。ちよつとの間は辛らからうが、君の弾力性が承知しないよ。君はまたぢきにむく/\と起き上るから」
 桂子はいふべきことをいはねばならぬと思つた。
「せん子とのことは、あれは私に面当てなの?」
「いや、さうぢやない」と小布施は撫でゝゐた手をぴたりと止めた。暫くして、またそろ/\撫でながら、「云はゞ自然の意志に従つたといふのだらうな。すべてこの世で未完成だつた人間に、自然は一人の子供でも残させなけりや……」
 小布施は疲れ切つて、またベツドへ横になり、爪先を立て、寝ながらいくらか反身になつた。そして額に手を組んで誰にいふともなく、
「僕の子供の育つ時分には、医術が発達して、結核なんかはたいして体の毒にはならんだらうな……」


 Q――芸館借入れの不調や、小布施の事件で、桂子が無気力虚脱に過ぎてゐた一年の間に、桂子の信用や名声は高められ、Q――芸館からむしろ懇望の形で桂子の大会は迎へられた。
 桂子自身はもはやその幸運にさほどの感動もうけなかつた。「出来るときは、もう要らないときだ」とは桂子がいつも物事の運びの上に感ずることだつた――が、結局桂子は無気力から立ち上る力が必要だつた。
 丹花を銜みて巷を行けば、畢竟、惧れはあらじ。
 友の書いて呉れた詞句に依るべく、桂子は花を銜むといふより、むしろ花に噛みつき、花へ必死に取り縋つた。
 そこに必然性以上の気力が湧き、卓越した思考力が与へられた。


[#ここから1字下げ]
茲で一応読者
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング