子が庭先にぼんやり停つてゐる。
「どうしたの」
と訊くと、腰をかゞめてちよつとはにかん[#「はにかん」に傍点]だ余所《よそ》行きのお叩頭をした。その褄外れの用心深さ、腰の手際よき纒め方、袖口を気にする工合、家にゐた時とは別人のやうである。それにも増して桂子のと[#「と」に傍点]胸を衝いたのは、小娘の物憂い表情の中に、覚悟と誇らしげなものを潜めてゐたことだ。
 しじゆう弟子に大勢の処女を扱ひつけ、その上、十六年間花に捧げたつもりで禁慾生活を続けて来た桂子には、人並以上性的鑑識感覚が鋭くなつてゐた。桂子は姪をもはや肉身の伯母の自分すらどうすることも出来ない、一人前の女になつたと、直ぐ見て取つた。何の秘するところもなく親愛し合つた独身女と処女との間柄に段が出来た。そしてこのせん子の相手は? ――「しまつた」とかの女は胸に焼鏝を当てた。
「せん子、なぜ上らないの」
「あの、そこまで小布施さんのお買物に来ましたの……」
 せん子は小布施の名前をわざと白々しく、声高にいふほど度胸が据つてゐた。桂子の方が却つてしどろもどろになつた。
「では、こゝへでも腰をおかけな」
 椽側の金魚の鉢の傍へ座蒲団を出してやつた。自分の相手の他人行儀を庇つて、つい他人行儀に振舞ふのを不思議に思ひながら。
 せん子のいふところによると、小布施の経過はあまりよくなかつた。結核患部にX光線をかけて貰ふのが唯一の頼みであるのを、小布施はどうしても専門病院に入院を肯じないといふのである。
 毎朝鶏の鳴く頃になると、腹の患部は激しく痛み出す。
「痛むときは泣き笑ひしながら、茶を飲んで死ぬるばかりだ、ときまつて仰云るのよ。心細いたらありやしません。けども、あんな立派な体格をして、あたし、絶対そんなこと信じられないわ」
 必ず自分の熱誠で男を助けて見せるといふ哀切な息使ひが、せん子の言葉以上に桂子を刺戟した。いままで恋愛ではないと云つてゐた小布施と桂子の交情に、桂子が顧みていくらか忸怩としてゐたことは、男からの体臭的慰安だつた。小布施の普通より大柄の体格が、ネルのやうに柔い乾草のやうに香ばしい体臭を持つてゐた。彼の持病持ちの体質の弱点から薫じ出るものらしい。それは必ずしも、傍に居ずとも頭に想ふだけで、桂子は心が和《なご》められた。小布施の体臭からうけるこの影響は、時間も距離も超越してゐた。桂子は殆ど地球の裏と表とに距る大西洋を渡る帰朝途上のアメリカ近くの汽船中で彼を嗅ぐことが出来た。すると、安らかに婦人専用船室のベツドで眠れた。
 仕方がない――何も直接に皮膚に触れ合ふわけではなし――。花にばかり捧げると誓つた桂子の貞操が、こんな言ひ訳を時々自分に向けてしてゐたのだつた。
 何といふことであらう。たゞ、それ程あつさりした間柄と思つてゐた男を、あの体臭ぐるみ他人に独占されたとなると、むら/\と苦痛に絶する焔が肉体の内部を転動させて、長年鍛へた魂の秩序も、善悪の判断も、芸術への殉情も一挙に覆りかけるとは――。
 だが、かの女として小布施をもせん子をも咎める筋はなかつた。小布施がかの女の愛人と烙印されてゐるわけでもなく、単に物資の被補助者である以上、ほかの女性との間に愛が生れやうと、結婚しようと自由である。姪は伯母のものを奪つたとは云へなかつた。小布施との交情について、せん子の伯母への遠慮は、たゞ表白の機会に達しないだけの慎しみに過ぎない。
「小布施さん此頃私に何か用で逢ひ度いと云つてゐなかつたかね」桂子は必死にさあらぬ態を装つて訊いた。
「いゝえ、別に――あゝ、さう/\近頃煎茶がとても好きになつたから、良い煎茶があつたら貰つて来て呉れつて――」
 桂子は煎茶の箱を探して、それと当分の費用の金包みを添へてせん子に渡してやつた。せん子は小ぢんまりした若妻のやうな後姿を見せて帰つて行つた。


「せん子の帰らないうちに早く聴かせて頂戴。私はせん子にこんな話をちつとでも知せたくはないから」と桂子はいつた。小布施の病室である。桂子は思ひあまつて、忙しい中を訪ねて来た。せん子がいつも銭湯に行く習慣の夜更けを知つて来たのを、桂子はつく/″\自分も人の留守を覗ふ身分になつたかと情なく感じた。
「頭も悪くなつてるし、もう何も彼もどうでもいゝと思つてるし、返事をするがものはないが――」
 小布施は枕を支へにやつと腹匍ひになつた。
「訊くなら云つてもいゝ。君と僕は昔から本当は愛し合つてたのだ。」
 小布施はまるで他人事のやうに淡々といつた。
「私も急にそれに気がついたの。でも、どう考へても永い年月の間に結婚する気が起らなかつたの」
 桂子も相手の調子に並んで声だけ淡々とさせていつた。
「不思議な同志さ。君には何か生れない前から予約されたとでもいふ、一筋徹つてゐる川の本流のやうなものがあつて、来るものを
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