か》れた。何という不思議なこの家の娘であろう。この娘にも一光閃も、一陰翳もない。ただ寂しいと云えばあまりに爛漫として美しく咲き乱れ、そして、ぴしぴし働いている。それがどういう目的のために何の情熱からということもなく快闊《かいかつ》そのものが働くことを藉《か》りて、時間と空間を鋏《はさ》み刻んで行くとしか思えない。内にも外にも虚白なものの感じられるのを、却って同じ女としての私が無関心でいられる筈《はず》がなかった。
 娘はその後、二度程私の部屋に来た。一度は「ほんとに気がつきませんで……」といって、三面鏡の化粧台を店員たちに運ばせて、程よい光線の窓際に据《す》えて行った。一度は漢和の字引をお持ちでしたらと借りに来て、私がここまでは持って来ないのを知り、「お邪魔いたしましたわ」といってあっさり去った。
 私がまだ意識の底に残している、娘と何等かの関係ありそうな海好きの店員のことも、娘は忘れたかのように、すこしの消息も伝えない。私の多少当が外れた気持ちが、私がこの家へ出入のときに眼に映る店先での娘の姿や、窓越しに見る艀板《はしけいた》の上の娘の姿にだんだん凝って行くのであった。私の仕事鞄《しごとかばん》は徒《いたずら》に開かれて閉されるばかりである。
 私はだいぶ慣れて来た小女のやま[#「やま」に傍点]に訊いてみた。
「お嬢さんはどういう方」
 するとやま[#「やま」に傍点]は難かしい試験の問題のようにしばらく考えて、
「さあ、どういう方と申しまして……あれきりの方でございましょう」
 私はこのませ[#「ませ」に傍点]た返事に微笑した。
「この近所では亀島河岸のモダン乙姫《おとひめ》と申しております」
 私の微笑は深まった。
「他所《よそ》へお出になることがあって」
「滅多に、でも、お買ものの時や、お店のお交際《つきあ》いには時たまお出かけになります」
「お店のお交際いというと……」
 私は娘の活動範囲が、そこまで圏を拡《ひろ》げているのに驚ろいた。
「よくは存じませんですが、組合のご相談だの、宴会だの。きょうも船の新造卸しのお昼のご宴会に深川までお出かけになりましたが……」
 その夕方帰り仕度をしている私の部屋の前で、娘の声がした。
「まだお在《い》でになりまして」
 盛装して一流の芸者とも見える娘。娘に「ちょっと入って頂戴《ちょうだい》」と云われて、そのあとから若い芸妓《げいぎ》が二人とお雛妓《しゃく》が一人現れた。
 部屋の主《あるじ》は私女一人なのに、外来の女たちはちょっと戸惑ったようだが、娘が紹介すると堅苦しく挨拶《あいさつ》して、私が差出した小長火鉢にも手を翳《かざ》さず、娘から少し退って神妙に座った。いずれもかなりの器量だが、娘の素晴らしい器量のために皺《しわ》められて見えた。
 娘は私には「この人たち宴会場から送って来て呉れたのですけれど、筆をお執りになる方には何かのご経験と思いついて、ちょっとお部屋へ上って貰いましたの」といった。
 少しの間、窮屈な空気が漂っていたが、娘は何も感じないらしく、「みなさん、こちらに面白そうなことを少し話してあげて下さい」というにつれ、私も、「どうぞ」と寛《くつろ》いだ様子を出来るだけ示したので、女たちは、「じゃ、まず、一ぷくさせて頂いて……」と袂《たもと》からキルク口の莨《たばこ》を出して、煙を内端に吹きながら話した。
 今までいた宴会の趣旨の船の新造卸しから連想するためか、水の上の人々が酒楼に上ったときの話が多かった。
 船に乗りつけている人々はどんなに気取っても歩きつきで判るのである。畳の上ではそれほどでもないが、廊下のような板敷きへかかると船の傾きを踏み試めすような蛙股の癖が出て、踏み締め、踏み締め、身体の平定を衡《はか》って行くからである。一座の中でひどく酔った連れの一人が洗面所へ行ったが、その帰りに料亭の複雑な部屋のどこかへ紛れ込んで、探しても判らなかった。すると他の連中は、その連れの一人が乗組んでいる船の名を声を揃えて呼んだ。
「福神丸やーイ」
 すると、「おーい」と返事があって、紛れた客があらぬ方からひょっこり現れた。
 ある一軒の料亭で船乗りの宴会があった。少し酔って来るとみな料理が不味《まず》いと云い出した。苦笑した料理方が、次から出す料理には椀《わん》にも焼ものにも塩一つまみずつ投げ入れて出した。すると客はだいぶ美味《おい》しくなったといった。それほど船乗りの舌は鹹味《かんみ》に強くなっている。
 きょうはいい塩梅《あんばい》に船もそう混まないで、引潮の岸の河底が干潟になり、それに映って日暮れ近い穏かな初冬の陽が静かに褪《さ》めかけている。鴎《かもめ》が来て漁《あさ》っている。向う岸は倉庫と倉庫の間の空地に、紅殻色《べんがらいろ》で塗った柵の中に小さい稲荷《いなり》と鳥居が見え、子供が石蹴《いしけ》りしている。
 さすがに話術を鍛えた近頃の下町の芸妓《げいぎ》の話は、巧まずして面白かったが、自分の差当りの作品への焦慮からこんな話を喜んで聞いているほど、作家の心から遊離していいものかどうか、私の興味は臆《おく》しながら、牽《ひ》き入れられて行った。
 ふと年少らしい芸妓が、部屋の上下周囲を見廻《みまわ》しながら
「このお部屋、大旦那《おおだんな》が母屋へお越しになってから、暫《しば》らく木ノ[#「木ノ」に傍点]さんがいらしったんでしょう……」と云った。
 娘は黙ってごく普通に肯《うなず》いて見せた。
「木ノさんからお便りありまして……」と同じ芸者はまた娘に訊《き》いた。
「ええ、しょっちゅう」と娘はまた普通に答えて、次にこの芸妓の口から出す言葉をほぼ予測したらしく、面白そうに嬌然《きょうぜん》と笑ってこんどは娘の方から芸妓の言葉を待受けた。芸妓は果して
「あら、ご馳走《ちそう》さま、妬《や》けますわ」と燥《はしゃ》いでいった。
「ところが、事務のことばかりの手紙で」
 芸妓はこの娘が隠し立てしたり、人を逸《はぐ》らかしたりする性分ではないのを信じているらしく、それを訊くと同時に、
「やっぱり――」と云って興醒《きょうざ》め顔に口を噤《つぐ》んだ。
「そう申しちゃ何ですけれど、あたしはお嬢さんがあんまり伎倆《うで》がなさ過ぎると思いますわ」
 と今度は年長の芸妓が云った。「これだけのご器量をお持ちになりながら……」
 娘は始めて当惑の様子を姿態に見せた。
「あたしは、随分、あの人の気性に合うよう努めているんだけれど……なによ、その伎倆っていうの」
 年長の芸妓は物事の真面目《まじめ》な相談に与《あずか》るように、私が押し出してやってある長火鉢に分別らしく、手を焙《あぶ》りながら、でもその時急に私の方を顧慮する様子をして
「ですが、こちらさんにこんなお話お聞かせして好いんですか」
「ええ、ええ」
 娘の悪びれないその返事が如何にも私に対する信頼と親しみの響きとして私にひびいた。先程からの仕事への焦慮もすっかり和んで、むしろ私はその場の話を進行させる為めにことさら自らの態度を寛がせさえするのであった。年長の芸妓は安心したように元の様子に戻って
「ま、譬《たと》えて云ってみれば、拗《す》ねてみたり、気を持たせてみたり」
 娘は声を立てて笑った。「そのくらいのことなら、前に随分あたしだって……」
 私はこの娘に今まで見落していたものを見出して来たような気がした。芸妓は手持無沙汰《てもちぶさた》になって、
「そうでございますかねえ、じゃ、ま、抓《つね》っても見たり……」と冗談にして、自分を救ったが、誰も笑わなかった。
 すると若い芸妓の方がまた
「だめ、だめ、そんな普通な手じゃ。あたしいつか、こちらさまの大旦那の還暦のご祝儀がございましたわね。あのお手伝いに伺いましたとき」といって言葉を切り、そしていい継いだ。「酔った振りして、木ノさんの膝《ひざ》に靠《もた》れかかってやりました。いろ気は微塵《みじん》もありません。お嬢さんにゃあ済まないけど、お嬢さんの為めとも思って、お嬢さんほどの女をじらしぬくあの評判の女嫌いの磐石板《ばんじゃくいた》をどうかして一ぺん試してやりたいと思いましたから。すると、あの磐石板はわたしの手をそっと執ったから、ははあ、この男、女に向けて挨拶《あいさつ》ぐらいは心得てると、腹の中で感心してますと、どうでしょう、それはわたしが本当に酔ってるか酔ってないか脉《みゃく》を見たのですわ。それから手首を離して、そこにあった盃を執り上げると、ちょろりとあたしの鼻の先へ雫《しずく》を一つ垂らして、ここのところのペンキが剥《は》げてら、船渠《ドック》へ行って塗り直して来いと云うんです。あたしは口惜しいの何のって、……でもね、そうしたあとで、あの人を見ても、別に意地の悪い様子もなく、ただ月の出を眺めてるようにぼんやりお酒を飲んでいる調子は、誰だって怒る気なんかなくなっちまいますわ。あたしは、つい、有難うございますとお叩頭《じぎ》して指図通り、顔を直しに行っただけですけれど、全く」と年下の芸妓は力を籠《こ》めた。
「全く、お嬢さんでなくても、木ノさんには匙《さじ》を投げます」と云った。
 新造卸しの引出物の折菓子を与えられて、唇の紅を乱して食べていた雛妓《おしゃく》が、座を取持ち顔に、「愛嬌喚《あいきょうわめ》き」をした。
「結婚しちまえ!」
 これに対しても娘は真面目に答えた。
「厄介なのは、そんなことじゃないんだよ」「そもそも、お嬢さんに伺いますが、あんたあの方に、どのくらい惚《ほ》れていらっしゃるんです。まあ、お許婚《いいなずけ》だから、惚れるの惚れないのという係り筋は通り越していらっしゃるんでしょうけれど」
 すると娘は、俄《にわか》に、ふだん私が見慣れて来た爛漫《らんまん》とした花に咲き戻って、朗に笑った。
「この話は、まあ、この程度にして……こちらさまも一つ話ではお飽きでしょうから」
「そうでございましたわね」と芸妓たちも気がついて云った。
 私は帰る時機と思って、挨拶した。
 河靄《かわもや》が立ち籠めてきた河岸通りの店々が、早く表戸を降している通りへ私は出た。


 三四日、私は河沿いの部屋へ通うことを休んで見た。折角自然から感得したいと思うものを、娘やそのほか妙なことからの影響で、妨げられるのが、何か不服に思えて来たからである。いっそ旅に出ようか、普通通りすがりの旅客として水辺の旅館に滞在するならば、なんの絆《きずな》も出来るわけはない。明け暮れただ河面を眺め乍《なが》ら、張り亘《わた》った意識の中から知らず知らず磨き出されて来る作家本能の触角で、私の物語の娘に書き加える性格をゆくりなく捕捉《ほそく》できるかも知れない。私のこの最初の方図は障碍《しょうがい》に遭《あ》って、ますますはっきり私に慾望化して来た。
 ふと、過去に泊って忘れていたそれ等の宿の情景が燻《くすぶ》るように思い出されて来る。
 鱧《はも》を焼く匂《にお》いの末に中の島公園の小松林が見渡せる大阪天満川の宿、橋を渡る下駄の音に混って、夜も昼も潺湲《せんかん》の音を絶やさぬ京都四條河原の宿、水も砂も船も一いろの紅硝子《べにガラス》のように斜陽のいろに透き通る明るい夕暮に釣人が鯊魚《はぜ》を釣っている広島太田川の宿。
 水天髣髴《すいてんほうふつ》の間に毛筋ほどの長堤を横たえ、その上に、家五六軒だけしか対岸に見せない利根川の佐原の宿、干瓢《かんぴょう》を干すその晒《さら》した色と、その晒した匂いとが、寂しい眠りを誘う宇都宮の田川の宿――その他川の名は忘れても川の性格ばかりは、意識に織り込まれているものが次々と思い泛《うか》べられて来た。何処でも町のあるところには必ず川が通っていた。そして、その水煙と水光とが微妙に節奏する刹那《せつな》に明確な現実的人間性が劃出《かくしゅつ》されて来るのが、私に今まで度々の実例があった。東洋人の、幾多古人の芸術家が「身を賭《か》けて白雲に駕《が》し、」とか、「幻に住さん」などということを希《ねが》っている。必ずしも自然を需《もと》めるのではある
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