もひき》を穿《は》いて、店では店の若い者に交り、河では水揚げ帳を持って、荷夫を指揮していた娘を想《おも》い出した。そして、この捌《さば》けて男慣れのした様子は、あまりに易々としたところを見せているので、私はまたこれが娘の天成であって、私が付合い、私がそれに巻込まれて、骨を折っている現在の事は、何だか私の感情の過剰から、余計なおせっかいをしているのではないかという、いまいましいような反省に見舞われそうになった。
事務員の青年たちは、靉靆として笑い、娘に満足させられている様子でも、それ以上には出ないようであった。たった一人、ウイスキーに酔った一人の青年が、言葉の響を娘にこすりつけるようにして、南洋特産と噂《うわさ》のある媚薬《びやく》の話をしかけた。すると娘は、悪びれず聞き取っていて、それから例の濃い睫毛《まつげ》を俯目《ふしめ》にして云った。
「ほんとにそういう物質的のもので、精神的のものが牽制《けんせい》できるものならば、私の関り合いにも一人飲ませたい人間があるんでございますわ」
その言葉は、真に自分の胸の底から出たものとも、相手の話手に逆襲するとも、どっちにも取れる、さらさらした間を流れた。
そこに寂しい虚白なものが、娘の美しさを一時飲み隠した。それは、もはや二度と誰もこういう方面に触る話をしようとするものはなくなったほど、周囲の人間に肉感的なもの、情慾的なものの触手を収斂《しゅうれん》さす作用を持っていた。それで、娘が再び眼を上げて華やかな顔色に戻ったとき、室内はただ明るく楽しいことが、事務的に捗取《はかど》って行く宴座となった。けれども、娘は座中の奉仕を決して、義務と感ずるような気色は少しも見せず、室内の空気に積極的に同化していた。
中老の詩人社長は、欄干の籐椅子《とういす》で、まだビールのコップを離さず、酔いに舌甜《したな》めずりをしていた。
「東北風を斜に受けながら、北流する海潮を乗り越えつつ、今や木下君の船は刻々馬来半島の島角に近づきつつあるのです。送るのは水平線上の南十字星、迎えるのは久恋の佳人。いいですな。木下君は今や人間のありとあらゆる幸福を、いや全人類の青春を一人で背負って立っているようなものです」
彼はすっかり韻文の調子で云って、それから、彼の旧作の詩らしいものを、昔風の朗吟の仕方で謡《うた》った。
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星の海に
船は乗り出でつ
魂《たま》惚《ほ》るる夜や
…………
…………
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い
…………
浪枕
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社長は私が話した海の上の男と、娘との間の複雑した事情は都合よく忘れて仕舞い、二人の間の若い情緒的なものばかりを引抽《ひきぬ》いて、或は空想して、それに潤色し、自分の老いの気分に固着するのを忘れ、現在の殻から一時でも逃れて瑞々《みずみず》しい昔の青春に戻ろうと努めているらしいその願いが如何にも本能的で切実なものであるのに私の心は動された。朗吟も旧式だが誇張的のまま素朴で嫌味はなかった。
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親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い――――
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壁虎《やもり》が鳴く、夜鳥が啼く。私にも何となく甘苦い哀愁が抽《ひ》き出されて、ふとそれがいつか知らぬ間に海の上を渡っている若い店員にふらふらと寄って行きそうなのに気がつくと、
「なにを馬鹿らしい。人の男のことなぞ」
と嘲《あざけ》って呆《あき》れるのであるが、なおその想《おも》いは果実の切口から滲み出す漿液《しょうえき》のように、激しくなくとも、直《す》ぐには止まらないものであった。
何がそうその男を苦しめて、陸の生活を避けさせ、海の上ばかり漂泊さすのか。
ひょっとしたら、他に秘密な女でもあって、それに心が断ち切れないのではあるまいか。
或は、この世の女には需《もと》め得られないほどの女に対する慾求を、この世の女にかけているのではあるまいか。
或は、生れながら人生に憂愁を持つ、ハムレット型の人物の一人なのではあるまいか。
女のよきものをまだ真に知らない男なのではあるまいか。
こういうことを考え廻《めぐ》らしている間に、憐《あわれ》な気持ち、嫉妬《しっと》らしい気持、救ってやり度《た》い気持ち、慰めてやりたい気持ち、詰《なじ》ってやり度い心持ち、圧し捉《つか》まえてやり度い心持ちが、その男に対してふいふいと湧《わ》き出して来て、少し胸が苦しいくらいになる。恐らくこれは当事者の娘が考えたり、感じねばならないことだろうにと、私は私の心の変態の働きに、極力用心しながら、室内の娘を見ると、いよいよ鮮かに何の屈托《くったく》もない様子で、歌留多《カルタ》の札を配っている。私はふと気がついて、
「あの女は、自分の愛の悩みをさえ、奴隷に代って
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