に見えた。その電車は床の上に何本かの柱があって風通しの為《た》めに周りの囲い板はなく僅《わずか》に天蓋《てんがい》のような屋根を冠っているだけである。癒《いや》し難い寂しい気持ちが、私の心を占める。
「ここは新嘉坡の銀座、ハイ・ストリートといいます」
と社長にいわれて、二つ三つの店先に寄り衣裳《いしょう》の流行の様子を見たり、月光石《ムーンストーン》の粒を手に掬《すく》って、水のようにさらさら零《こぼ》しながらも、それは単なる女の習性で、心は外に漠然としたことを考えていた。
「この娘を首尾好く、その男に娶《そ》わすことが出来たとしても、それで幸福であるといえるだろうか。」
けれども、そう思う一方にまた、私は無意識のうちに若者と娘が暫《しばら》く茲《ここ》に新住宅でも持つであろうことを予想してしきりに社長に頼むのだった。
「ここに住宅地のようなものでもありますなら見物さして頂きたいのですが」
その晩、私たちをホテルまで送って来た社長は帰り際に「そうだ、護謨園《ゴムえん》の生活を是非見て貰わなくちゃ、――一晩泊りの用意をしといて下さい」
と云って更に、
「そりゃ、健康そのものですよ」
あくる朝、まず、社長がホテルに迎えに来て、揃《そろ》ってサロンで待っていると、大型の自動車が入って来た。操縦席から下りたヘルメットの若い紳士を、社長は護謨園の経営主だと紹介した。
「電話でよく判らなかったが……」
と経営主は云ってから、次に、私たちに
「いらっしゃい。鰐《わに》ぐらいは見られます」
と気軽に云った。
車は町を出て、ジョホール街道を疾駆して行った。速力計の針が六十五|哩《マイル》と七十哩の間をちらちらすると、車全体が唸《うな》る生きものになって、広いアスファルトの道は面前に逆立ち、今まで眼にとまっていた榕樹の中の草葺《くさぶ》きの家も、椰子林《やしりん》の中の足高の小屋も、樹を切り倒している馬来人《マレイじん》の一群も、総て緑の奔流に取り込められ、その飛沫《ひまつ》のように風が皮膚に痛い。大きな歯朶《しだ》や密竹で装われている丘がいくつか車の前に現れ、後に弾んで飛んで行く。マークの付いている石油タンクが乱れた列をなして、その後にじりじりと展転して行く。
「イギリス海軍用のタンク」
水が見える。綺麗《きれい》な可愛《かわい》らしい市が見える。ジョホール海峡の陸橋を渡って、見えていた市の中を通って、なおしばらく水辺に沿って行った処で若い紳士は車を停《と》め、土地の名所である回教の礼拝堂を見せた。がらんとして何もない石畳と絨氈《じゅうたん》の奥まった薄闇《うすやみ》へ、高い窓から射《さ》し入る陽の光がステンドグラスの加減で、虹ともつかず、花明りともつかない表象の世界を幻出させている。それを眺めていると、心が虚《うつろ》になって、肉体が幻の彩りのままに染め上げられて仕舞いそうな危険をほとほと感ずる。私たちは新嘉坡の市中で、芭蕉の葉で入口を飾り、その上へ極端な性的の表象を翳《かざ》しているヒンズー教の寺院を見た。それは精力的に手の込んだ建築であった。
虚空を頭とし、大地を五体とし、山や水は糞尿《ふんにょう》であり、風は呼吸であり、火はその体温であり、一切の生物無生物は彼の生むところと説く、シバ神崇拝に類して精力を愛するこの原始の宗教が、コーランを左手に剣を右手に、そして、ときどき七彩の幻に静慮する回教に、なぜ南方民族の寵《ちょう》をば奪われたのであろうか。そしてその回教がなぜまた物質文化に圧《おさ》えられたのであろうか。
私は取り留めもない感想に捉《とら》われながら、娘を見ると、いよいよ不思議な娘に見える。娘はモデレートな夏の洋装をしているのだが、それは皮膚を覆う一重のものであって、中身はこの回教の寺院の中に置けば、この雰囲気に相応《ふさ》わしく、ヒンズー教の精力的な寺院の空気にも相応わしかった。そればかりでなく、この地の活動写真館のアトラクションで見た暹羅《シャム》のあのすばらしく捌《さば》きのいい踊りを眺めていた時の彼女に、私はその踊りを習わせて、名踊子にしたい慾望さえむらむらと起ったほど、それにも相応しいものがあった。
一体この娘は無自性なのだろうか、それとも本然のものを自覚して来ないからなのだろうか。また再び疑わねばならなくなった。
それから凡《およ》そ七十|哩《マイル》許《ばか》り疾走して、全く南洋らしいジャングルや、森林の中を行くとき、私は娘に訊《き》いた。
「どう」
「いいですわね」
「いいですって……どういうふうにいいの」
「そうねえ……ここに一生住んで、自分のお墓を建てたいくらい」
そういう娘の顔は、さしかける古い森林の深いどす青い陰を弾ね返すほど生気に充《み》ちていた。
時々爆音が木霊《こだま
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