のを、盛装した馬来人《マレイじん》のボーイに差出されて、まず食慾が怯《おび》えてしまったことを語った。中老人は快げに笑って、
「女の方は大概そう云いますね。だがあの中には日本の乾物のようなものも混っていて、オツ[#「オツ」に傍点]なものもありますよ。慣れて来ると、そういう好みのものだけを選めば、結構食べられますよ」
 こんなことから話を解《ほご》し始めて、私たちは市中で昼食後の昼寝時間の過ぎるのを待った。
 叔母はさすがに女二人だけの外地の初旅に神経を配って、あらゆる手蔓《てづる》を手頼って、この地の官民への紹介状を貰って来て私に与えた。だが、私はそれ等を使わずに、ただ一人この中老人の社長を便宜に頼んだ。それは次のような理由で未知であった社長を既知の人であったかのようにも思ったからである。
 私が少女時代、文学雑誌に紫苑という雅号で、しきりに詩を発表していた文人があった。その詩はすこぶるセンチメンタルなものであって、死を憧憬し、悲恋を慟哭《どうこく》する表現がいかに少女の情緒にも、誇張に感じられた。しかもその時代の日本の詩壇は、もはやそれらのセンチメンタリズムを脱し、賑《にぎ》やかな官能を追い求めることに熱中した時代であって、この主流に対比しては、いよいよ紫苑氏の詩風は古臭く索漠に見えた。それでも氏の詩作は続けられていた。そのうち、ふと消えた。二三年してから僅《わず》かに三四篇また現われた。それは、「飛魚」とか「貿易風」とかいう題の種類のもので、いくらか詩風は時代向きになったかと感じられる程度のことが、却《かえ》って詩形をきごちなくしていた。詩に添えて紫苑氏が南の外洋へ旅に出た消息が書き加えられてあった。しかし、その後に紫苑氏の詩は永久に見られなくなった。
 この新嘉坡邦字雑誌の社長が、当年の詩人紫苑氏の後身であった。私は紫苑氏の後身の社長が、その携っている現職務上土地の智識に詳しかろうということも考えに入れたが、その前身時代の詩にどこか人の良いところが見えたのを憶《おも》い出し、この人ならば安心して、なにかと手引を頼めると思った。
「ともかく、私が日本を出発するときの気慨は大変なものでしたよ。白金巾《しろかなきん》の洋傘に、見よ大鵬《たいほう》の志を、図南《となん》の翼を、などと書きましてね。それを振り翳《かざ》したりなんかしましてね……今から思えば恥かしいようなもので、は、は、は、……」
 そしてお茶の代りにビールを啜《すす》りながら、扇を使っていた中老の社長は感慨深そうに、海を見詰めていたが、
「人間の行き道というものは、自分で自分のことが判らんものですな。僕のその時分の初志は、どこか南洋の孤島を見付けて、理想的な詩の国を建設しようとしたにあったのですが……だんだん現実に触れて見ると、まずその智識や準備をということになり、次には自分はもう出来ないから、それに似たような考えの人に、折角貯えた自分の智識を与えようということになり、それが、職業化すると、単なる事務に化してしまいます」
 中老人は私達をじろじろ眺めて、
「普通の人にならこんな愚痴は云わないで、ただ磊落《らいらく》に笑っているだけですが、判って下さりそうな内地の若い方を見ると、つい喋《しゃべ》りたくなるのです。あなた方のお年頃じゃ判りますまいが、人間は幾つになっても中学生のところは遺《のこ》っています」
 そして屹《きっ》となって私の顔を見張り、自分が云い出す言葉が、どう私に感銘するかを用心しながら云った。
「僕は、今でも、僕の雑誌の詩壇の選者を頑張ってやっています。だんだん投書も少くなるし、内地の現代向の人に代えろと始終、編輯《へんしゅう》主任に攻撃されもしますが、なに、これだけは死ぬまで人にはやらせない積りです」
 日盛りの中での日盛りになったらしく、戸外の風物は灼熱《しゃくねつ》極まって白燼化《はくじんか》した灰色の焼野原に見える。時代をいつに所を何処と定めたらいいか判らない、天地が灼熱に溶けて、静寂極まった自然が夢や幻になったのではあるまいか。そこに強烈な色彩や匂《にお》いもある。けれどもそれは浮き離れて、現実の実体観に何の関りもない。ただ、左手海際の林から雪崩《なだれ》れ込む若干の椰子《やし》の樹の切れ離れが、急に数少なく七八本になり三本になり、距《へだ》てて一本になる。そして亭々とした華奢《きゃしゃ》な幹の先の思いがけない葉の繁《しげ》みを、女の額の截《き》り前髪のように振り捌《さば》いて、その影の部分だけの海の色を涼しいものにしている。ここだけが抉《えぐ》り取られて、日本の景色を見慣れた私たちの感覚に現実感を与える。
 天井に唸《うな》る電気扇の真下に居て、けむるような睫毛《まつげ》を瞳《ひとみ》に冠《かぶ》せ、この娘特有の霞性《かすみせい》をいよい
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