て笑った。「そのくらいのことなら、前に随分あたしだって……」
 私はこの娘に今まで見落していたものを見出して来たような気がした。芸妓は手持無沙汰《てもちぶさた》になって、
「そうでございますかねえ、じゃ、ま、抓《つね》っても見たり……」と冗談にして、自分を救ったが、誰も笑わなかった。
 すると若い芸妓の方がまた
「だめ、だめ、そんな普通な手じゃ。あたしいつか、こちらさまの大旦那の還暦のご祝儀がございましたわね。あのお手伝いに伺いましたとき」といって言葉を切り、そしていい継いだ。「酔った振りして、木ノさんの膝《ひざ》に靠《もた》れかかってやりました。いろ気は微塵《みじん》もありません。お嬢さんにゃあ済まないけど、お嬢さんの為めとも思って、お嬢さんほどの女をじらしぬくあの評判の女嫌いの磐石板《ばんじゃくいた》をどうかして一ぺん試してやりたいと思いましたから。すると、あの磐石板はわたしの手をそっと執ったから、ははあ、この男、女に向けて挨拶《あいさつ》ぐらいは心得てると、腹の中で感心してますと、どうでしょう、それはわたしが本当に酔ってるか酔ってないか脉《みゃく》を見たのですわ。それから手首を離して、そこにあった盃を執り上げると、ちょろりとあたしの鼻の先へ雫《しずく》を一つ垂らして、ここのところのペンキが剥《は》げてら、船渠《ドック》へ行って塗り直して来いと云うんです。あたしは口惜しいの何のって、……でもね、そうしたあとで、あの人を見ても、別に意地の悪い様子もなく、ただ月の出を眺めてるようにぼんやりお酒を飲んでいる調子は、誰だって怒る気なんかなくなっちまいますわ。あたしは、つい、有難うございますとお叩頭《じぎ》して指図通り、顔を直しに行っただけですけれど、全く」と年下の芸妓は力を籠《こ》めた。
「全く、お嬢さんでなくても、木ノさんには匙《さじ》を投げます」と云った。
 新造卸しの引出物の折菓子を与えられて、唇の紅を乱して食べていた雛妓《おしゃく》が、座を取持ち顔に、「愛嬌喚《あいきょうわめ》き」をした。
「結婚しちまえ!」
 これに対しても娘は真面目に答えた。
「厄介なのは、そんなことじゃないんだよ」「そもそも、お嬢さんに伺いますが、あんたあの方に、どのくらい惚《ほ》れていらっしゃるんです。まあ、お許婚《いいなずけ》だから、惚れるの惚れないのという係り筋は通り越していらっしゃるんでしょうけれど」
 すると娘は、俄《にわか》に、ふだん私が見慣れて来た爛漫《らんまん》とした花に咲き戻って、朗に笑った。
「この話は、まあ、この程度にして……こちらさまも一つ話ではお飽きでしょうから」
「そうでございましたわね」と芸妓たちも気がついて云った。
 私は帰る時機と思って、挨拶した。
 河靄《かわもや》が立ち籠めてきた河岸通りの店々が、早く表戸を降している通りへ私は出た。


 三四日、私は河沿いの部屋へ通うことを休んで見た。折角自然から感得したいと思うものを、娘やそのほか妙なことからの影響で、妨げられるのが、何か不服に思えて来たからである。いっそ旅に出ようか、普通通りすがりの旅客として水辺の旅館に滞在するならば、なんの絆《きずな》も出来るわけはない。明け暮れただ河面を眺め乍《なが》ら、張り亘《わた》った意識の中から知らず知らず磨き出されて来る作家本能の触角で、私の物語の娘に書き加える性格をゆくりなく捕捉《ほそく》できるかも知れない。私のこの最初の方図は障碍《しょうがい》に遭《あ》って、ますますはっきり私に慾望化して来た。
 ふと、過去に泊って忘れていたそれ等の宿の情景が燻《くすぶ》るように思い出されて来る。
 鱧《はも》を焼く匂《にお》いの末に中の島公園の小松林が見渡せる大阪天満川の宿、橋を渡る下駄の音に混って、夜も昼も潺湲《せんかん》の音を絶やさぬ京都四條河原の宿、水も砂も船も一いろの紅硝子《べにガラス》のように斜陽のいろに透き通る明るい夕暮に釣人が鯊魚《はぜ》を釣っている広島太田川の宿。
 水天髣髴《すいてんほうふつ》の間に毛筋ほどの長堤を横たえ、その上に、家五六軒だけしか対岸に見せない利根川の佐原の宿、干瓢《かんぴょう》を干すその晒《さら》した色と、その晒した匂いとが、寂しい眠りを誘う宇都宮の田川の宿――その他川の名は忘れても川の性格ばかりは、意識に織り込まれているものが次々と思い泛《うか》べられて来た。何処でも町のあるところには必ず川が通っていた。そして、その水煙と水光とが微妙に節奏する刹那《せつな》に明確な現実的人間性が劃出《かくしゅつ》されて来るのが、私に今まで度々の実例があった。東洋人の、幾多古人の芸術家が「身を賭《か》けて白雲に駕《が》し、」とか、「幻に住さん」などということを希《ねが》っている。必ずしも自然を需《もと》めるのではある
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