河明り
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)満《み》ち干《ひ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本郷|駒込台《こまごめだい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)酸※[#「やまいだれ+発」、742−下−21]《さんぱい》
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 私が、いま書き続けている物語の中の主要人物の娘の性格に、何か物足りないものがあるので、これはいっそのこと環境を移して、雰囲気でも変えたらと思いつくと、大川の満《み》ち干《ひ》の潮がひたひたと窓近く感じられる河沿いの家を、私の心は頻《しき》りに望んで来るのであった。自分から快適の予想をして行くような場所なら、却《かえ》ってそこで惰《なま》けて仕舞いそうな危険は充分ある。しかし、私はこの望みに従うより仕方がなかった。
 人間に交っていると、うつらうつらまだ立ち初めもせぬ野山の霞《かすみ》を想《おも》い、山河に引き添っているとき、激しくありとしもない人が想われる。
 この妙な私の性分に従えば、心の一隅の危険な望みを許すことによって、自然の観照の中からひょっとしたら、物語の中の物足らぬ娘の性格を見出す新な情熱が生れて来るかも知れない――その河沿いの家で――私は今、山河に添うと云ったが、私は殊にもこの頃は水を憶《おも》っているのであった。私は差しあたりどうしても水のほとりに行き度《た》いのであった。
 東京の東寄りを流れる水流の両国橋辺りから上を隅田川と云い、それから下を大川と云っている。この水流に架かる十筋の橋々を縫うように渡り検めて、私は流の上下の河岸を万遍《まんべん》なく探してみた。料亭など借りるのは出来過ぎているし、寮は人を介して頼み込むのが大仰《おおぎょう》だし、その他に頃合いの家を探すのであるが、とかく女の身は不自由である。私は、今度は大川から引き水の堀割りを探してみた。
 白木屋横手から、まず永代橋詰まで行くつもりで、その道筋の二つ目の橋を渡る手前にさしかかると、左の河並に横町がある。私有道路らしく道幅を狭めて貨物を横たえているが、陸側は住居附きの蔵構への問屋店が並び、河岸側は荷揚げ小屋の間にしんかんとした洋館が、まばらに挟っている。初冬に入って間もないあたたかい日で、照るともなく照る底明るい光線のためかも知れない、この一劃《いっかく》だけ都会の麻痺《まひ》が除かれていて、しかもその冴《さ》え方は生々しくはなかった。私はその横道へ入って行った。
 河岸側の洋館はたいがい事務所の看板が懸けてあった。その中の一つの琺瑯質《ほうろうしつ》の壁に蔦《つた》の蔓《つる》が張り付いている三階建の、多少住み古した跡はあるが、間に合せ建ではないそのポーチに小さく貸間ありと紙札が貼《は》ってあった。ポーチから奥へ抜けている少し勾配《こうばい》のある通路の突き当りに水も覗《のぞ》いていた。私はよくも見つけ当てたというよりは、何だか当然のような気がした。望みというものは、意固地《いこじ》になって詰め寄りさえしなければ、現実はいつか応じて来るものだ。私が水辺に家を探し始めてから二ヶ月半かかっている。
 二三度「ご免下さい」と云ったが、返事がない。取り付きの角の室を硝子窓《ガラスまど》から覗くと、薄暗い中に卓子《テーブル》のまわりへ椅子《いす》が逆にして引掛けてあり、塵《ちり》もかなり溜《たま》っている様子である。私は道を距《へだ》てて陸側の庫造《くらづく》りの店の前に働いている店員に、理由を話して訊《たず》ねて見た。するとその店員は家の中へ向って伸び上り、「お嬢さーん」と大きな声で呼んだ。
 九曜星の紋のある中仕切りの暖簾《のれん》を分けて、袂《たもと》を口角に当てて、出て来た娘を私はあまりの美しさにまじまじと見詰めてしまった。頬《ほお》の豊かな面長の顔で、それに相応《ふさわ》しい目鼻立ちは捌《さば》けてついているが、いずれもしたたかに露を帯びていた。身丈も格幅《かっぷく》のよい長身だが滞なく撓《しな》った。一たい女が美しい女を眼の前に置き、すぐにそうじろじろ見詰められるものではない。けれども、この娘には女と女と出会って、すぐ探り合うあの鉤針《かぎばり》のような何ものもない。そして、私を気易くしたのは、この娘が自分で自分の美しさを意識して所作《しょさ》する二重なものを持たないらしい気配いである。そのことは一目で女には判る。
 娘は何か物を喰《た》べかけていたらしく、片袖《かたそで》の裏で口の中のものを仕末して、自分の忍び笑いで、自然に私からも笑顔を誘い出しながら
「失礼いたしました。あの何かご用――」
 そして私がちょっと河岸の洋館の方へ首を振り向けてから
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