れが水天一枚の瑠璃色《るりいろ》の面でしばしば断ち切れて、だんだん淡く、蜃気楼《しんきろう》の島のように中空に映り霞《かす》んで行く。たゆげな翼を伸した鳥が、水に落ちようとしてたゆたっている。
 昼前に新嘉坡《シンガポール》の郊外のカトン岬の小さな桟橋についた。娘の待つ男の船は、今夜か明朝、新港に着く予定であった。
「まだ時間は大丈夫だ。ゆっくりして行きましょう。この辺もチャンギーと云って、新嘉坡の名所の一つで、どうせ来なくちゃならんところだ」社長はそういって、海の浅瀬に差し出してある清涼亭という草葺《くさぶ》き屋根の日本人経営の料亭へ、私たちを連れて行き、すぐ上衣を脱いだ。
「まあいい所ね」
 私も娘も悦《よろこ》んだ。この辺の砂は眩《まぶし》いくらい白く、椰子《やし》の密林の列端は裾《すそ》を端折《はしょ》ったように海の中に入っている。
 亭の前の崖下《がけした》は生洲《いけす》になっていて、竹笠《たけがさ》を冠《かぶ》った邦人の客が五六人釣をしている。
 汐時のすこし湿っぽい畳の小座敷で、社長は無事見学祝いだとか、何とか云っては日本酒の盃を挙げている。海の匂《にお》いと酒の匂いが、自分たちの遠い旅をほのぼのと懐かしませる。私は生洲から上げたばかりという生け鱸《すずき》の吸ものの椀《わん》を取上げて、長汀曲浦《ちょうていきょくほ》にひたひたと水量を寄せながら、浜の椰子林をそのまま投影させて、よろけ縞《しま》のように揺らめかし、その遙かの末に新嘉坡の白亜の塔と高楼と煤煙《ばいえん》を望ましている海の景色に眼を慰めていた。だが、心はまだしきりに今朝ジョホール河の枝川の一つで、銃声に驚いて見張った私達の瞳孔《どうこう》に映った原始林の厳《おごそ》かさと純粋さを想《おも》い起していた。それはひどく心を直接に衝《う》った。何か人間にその因習生活を邪魔なものに思わせ、それを脱ぎ捨て度《た》い切ない気持ちにさせた。そしてその原始の自然に食い込んで生活を立てて行く仕事が、何の種類であれ、人間の生きる姿の単一に近いものであるように考えさせられた。始終自然から享《う》ける直接の豊饒《ほうじょう》な直観に浸れもしよう。
「二万円の護謨園《ゴムえん》をお買いになれば、年々その収益で、こっちへ休暇旅行ができますね。どうです」
 座興的であったが若い経営園主がゆうべ護謨園で話の序《ついで》
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