船は乗り出でつ
魂《たま》惚《ほ》るる夜や
…………
…………
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い
…………
浪枕
[#ここで字下げ終わり]
社長は私が話した海の上の男と、娘との間の複雑した事情は都合よく忘れて仕舞い、二人の間の若い情緒的なものばかりを引抽《ひきぬ》いて、或は空想して、それに潤色し、自分の老いの気分に固着するのを忘れ、現在の殻から一時でも逃れて瑞々《みずみず》しい昔の青春に戻ろうと努めているらしいその願いが如何にも本能的で切実なものであるのに私の心は動された。朗吟も旧式だが誇張的のまま素朴で嫌味はなかった。
[#ここから2字下げ]
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い――――
[#ここで字下げ終わり]
壁虎《やもり》が鳴く、夜鳥が啼く。私にも何となく甘苦い哀愁が抽《ひ》き出されて、ふとそれがいつか知らぬ間に海の上を渡っている若い店員にふらふらと寄って行きそうなのに気がつくと、
「なにを馬鹿らしい。人の男のことなぞ」
と嘲《あざけ》って呆《あき》れるのであるが、なおその想《おも》いは果実の切口から滲み出す漿液《しょうえき》のように、激しくなくとも、直《す》ぐには止まらないものであった。
何がそうその男を苦しめて、陸の生活を避けさせ、海の上ばかり漂泊さすのか。
ひょっとしたら、他に秘密な女でもあって、それに心が断ち切れないのではあるまいか。
或は、この世の女には需《もと》め得られないほどの女に対する慾求を、この世の女にかけているのではあるまいか。
或は、生れながら人生に憂愁を持つ、ハムレット型の人物の一人なのではあるまいか。
女のよきものをまだ真に知らない男なのではあるまいか。
こういうことを考え廻《めぐ》らしている間に、憐《あわれ》な気持ち、嫉妬《しっと》らしい気持、救ってやり度《た》い気持ち、慰めてやりたい気持ち、詰《なじ》ってやり度い心持ち、圧し捉《つか》まえてやり度い心持ちが、その男に対してふいふいと湧《わ》き出して来て、少し胸が苦しいくらいになる。恐らくこれは当事者の娘が考えたり、感じねばならないことだろうにと、私は私の心の変態の働きに、極力用心しながら、室内の娘を見ると、いよいよ鮮かに何の屈托《くったく》もない様子で、歌留多《カルタ》の札を配っている。私はふと気がついて、
「あの女は、自分の愛の悩みをさえ、奴隷に代って
前へ
次へ
全57ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング