ぶたの所へあふれ出てしまはないうち、つまりそのお涙をたゝへたまゝのあなたのお眼によつて、昨夜のお別れの最後のなかからなくなる私の姿を完全にみまもつていたゞき度いといふ意慾を、あの夢中で走る私の胸にはつきりと私、意識してゐましたの。
 そのくせどうでせう、私、息せき切つてポストまで辿りつき、赤ぬりの少しはげてかたむきかゝつたあの裏街の煙草屋の角の爺さんのやうなもうろくしたポストの頭をつかまへるやいなや、その手へ満身の重心を集めて身体をさゝへながら、直ぐにあなたの方を――月の雫が太く下界に直立したやうな――電柱の方を見返しました。そして、その時、完全にあなたは私の視界にゐらつしやらない。その時、失望と安心が同時に私にやつてまゐりましたのはなぜかといへば、それはあなたが、私を、あの昨夜の明煌々とした月光のなかを、或、単純のやうで複雑であり、そして、恋の皮肉な心理状態にもてあそばれた稚拙な行為を、ありのままに行ひ終つた私を、ポストの際まで見送るがいなや、それは私が、あなたを振りかへるとほとんど同時に、あの電柱から実に巧妙に、恋人との別れのシーンに進退することの機微を遺憾なくなし終せられたといふ
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング