或る男の恋文書式
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#「え」はくずし字、21−6]
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 お別れしてから、あの煙草屋の角のポストの処まで、無我夢中で私が走つたのを御存じですか。あれはあなたにお別れしたくない心が、一種の反動作用を、私の行為の上に現はしましたの。それから私、走りながらも夢中の夢のやうに考へましたことは私がもし一寸でもふりかへつたら私はまたあなたの方へ……いえ[#「え」はくずし字、21−6]つひにあなたへ走りかへつて、永遠にあなたから離れられない、あの月夜の、月の雫が太く一本下界に落ちて、そのまゝ停つたやうに真新らしく白く木肌をかゞやかした電柱の下にしよんぼりと私を見送つてたつてゐらつしやつたであらうあなたのおそばから。それから私は、夢中で走りながら、まだこゝろのなかで、はつきり意識したことがありましたの。それは、あなたが、私の走るうしろ姿を見送る眼に、これはまた、同じ月の雫でも、実に、それを濃まやかにあなたの眼に点附したやうなあなたのお涙が……それが、あなたの特長である、幅広の二重まぶたの所へあふれ出てしまはないうち、つまりそのお涙をたゝへたまゝのあなたのお眼によつて、昨夜のお別れの最後のなかからなくなる私の姿を完全にみまもつていたゞき度いといふ意慾を、あの夢中で走る私の胸にはつきりと私、意識してゐましたの。
 そのくせどうでせう、私、息せき切つてポストまで辿りつき、赤ぬりの少しはげてかたむきかゝつたあの裏街の煙草屋の角の爺さんのやうなもうろくしたポストの頭をつかまへるやいなや、その手へ満身の重心を集めて身体をさゝへながら、直ぐにあなたの方を――月の雫が太く下界に直立したやうな――電柱の方を見返しました。そして、その時、完全にあなたは私の視界にゐらつしやらない。その時、失望と安心が同時に私にやつてまゐりましたのはなぜかといへば、それはあなたが、私を、あの昨夜の明煌々とした月光のなかを、或、単純のやうで複雑であり、そして、恋の皮肉な心理状態にもてあそばれた稚拙な行為を、ありのままに行ひ終つた私を、ポストの際まで見送るがいなや、それは私が、あなたを振りかへるとほとんど同時に、あの電柱から実に巧妙に、恋人との別れのシーンに進退することの機微を遺憾なくなし終せられたといふ
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