き取れない」
老侍女(縁先へ首を出してみて)「あら、もう、陽が西に廻りましてございます。それそれ、聖さまがむずむず身体を動かし始めなされました。そら、始まりますですよ。奥様、お早くいらっしゃい」
式部「どれ」
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(二人は縁先へ身体を乗出して聴く)
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聖「筏《いかだ》を漕ぐ、浪の音が聞える……あれは聖衆の乗らるる迎えの舟だ。五濁深重《ごじょくしんじゅう》の此岸を捨てて常楽我浄の彼岸へ渡りの舟。櫂《かい》を操る十六大士のお姿も、追々はっきり見えて来た。あな尊《とう》とや観世音|菩薩《ぼさつ》、忝《かたじ》けなや勢至菩薩。筏の舳《へさき》に立って、早や招いていらるるぞ。やっしっし、やっしっし、それ筏は着くぞ。あの妙《たえ》なる響は極楽鳥の鳴き声じゃな。得ならぬ香りはおん浄土の蓮の花を吹き開く風の訪れだ。それもう聖衆方、ひと漕ぎでござりまするぞ……こちらへ着きまするか、はいはい。支度《したく》は出来とります……はいはい、……これはいかなこと、もう一櫂、掻き下されと申すに。したら着きまする。のうのう、それじゃ、こちらへ寄りはしまいで、沖へ遠のきますと申すに。はてさて、意地の悪い菩薩方じゃ。だんだん筏は離れてしまいまする。ええ、それでは人焦らしに漕いで来られたようなものじゃ……おーいおーい、その舟、その筏、影はだんだん薄れて行く。もうすっかり見えなくなった。拙《つた》ない宿世《すくせ》か、前世の悪業か、あーあ今日もまた、極楽への行き損じか。誰を恨まんようもない。身も根も疲れ果てた。悲しもうにも涙も尽き果てた」
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(聖、がっくりする。式部と老侍女は顔を見合す)
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老侍女「どうやら、聖さまは極楽行きのお船に乗り損なったようじゃございませんか」
式部「そうだよ。こういう時代の人間は、あれほどの骨折をしながら、人間の中に何か此の世に引き付けられるものが漉《す》き込まれていて、解脱《げだつ》が手の届くところまで来ていても、どうしても掴めずに引戻されるらしい」
老侍女「何が、そんなに邪魔をするのでございましょう」
式部(縁にしゃがんで、たわわに咲き傾いている女郎花《おみなえし》を一つ手折って老侍女に示しながら)「おまえには言っても判るまいがそれは美しいものに牽《ひ》かれるという心だよ。この心が此の世に魅力を持たせて、捨てようにも捨てさせ切らせないのだよ。わたしのようにとっくに[#「とっくに」に傍点]尼になってもいい未亡人でもさ」
老侍女「あら、奥さま、驚きました。それじゃ、何でございますか、お堅いお堅いとお見上げ申した、あなた様にも、その奥には、そんな浮々したお心がおありなのでございますか」
式部(女郎花を机の先のあか桶に挿し、それから再び机の前に坐って)「何でそんなに驚くの。今の世の中の人はみんな蝶々、さっきの妙な若い男も、お隣の聖も、未亡人のわたしも誰でも色香にひかれる気持ちは一つなのだよ」
老侍女「そう致しますと、わたくしは、これから奥様のお取締りに油断は出来ませんでございますねえ」
式部「ほ、ほ、ほ、ほ、それは大丈夫。わたしのあこがれ[#「あこがれ」に傍点]は皆、この鎧《よろい》を通して矢を射交わすのだからね。(筆と紙を指先でつまんでみせて)滅多に傷は受けないんだよ」
老侍女「つまり、お気持は全部、筆にこめて紙の上だけに射るのだからとおっしゃるのでございますか」
式部「ほ、ほ、ほ、ほ、そこがつまり虫のせい[#「せい」に傍点]だろうか」
老侍女「でも、おかしゅうございますねえ、そんなに此の世の美しさに牽き付けられなさるあなた様が、始終、阿弥陀《あみだ》さまを拝んでいらっしゃいますとは」
式部(合掌して独言のように)「迎えの雲、この世の岸、たゆたう渚《なぎさ》に、あわれにも懐《なつか》しきわたしの浄土があるのだ。人の世の果敢無《はかな》さ、久遠《くおん》の涅槃《ねはん》、その架け橋に、わたしは奇しくも憩《いこ》い度い……さあ、もう何も言わないでね。だいぶ暗くなったから、燈でもつけて、それからお斎《とき》でもお隣の聖におあげなさい」
老侍女「はい」(老侍女は何の事とも判らず阿弥陀仏に一礼し燈台《あかり》を式部の机に備え、それから斎を用意し隣へ持って行く。日はとっぷり暮れ、鉦磬《しょうけい》と虫の声、式部は静かに筆を走らす。)
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[#地から2字上げ]――幕――
底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「巴里祭」青木書房
1938(昭和13)年11月25日発行
初出:「
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