通り、貞淑堅固の御婦人ですか、それとも内心には、ちっとは人の情熱に動かされ易い熱情的なところを持っていられますか。そのところを伺えると大変都合がいいんですけれど」
老侍女「どうでございますかわたくしには、……ただ、下々には思い遣りの深い良い奥様でございます」
妙な美男「それだけじゃ、何の足しにもなりませんね。もっと男女の愛情に対する性格を伺わなくっては」
老侍女「それほど御執心なら、あなたこそ直接に奥様にお会いを願って、ご自分でお見分けになったらいいじゃございませんか」
妙な美男(溜息をして)「とてもとても、そんな勇気が出ないのです。私には式部の作品を通して式部は相当、熱情的の方とは思われますが、しかし一方、ひどく鋭いところもあらるるようなので、実際臆病になっちまうのです。それでこんなにあの方をお慕い申していながら仲々お会いする勇気が出ませんのです。まあ今日は此《こ》の儘《まま》、帰りますから、あとでこの色紙を奥様に差し上げて下さい。さようなら」
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(妙な美男、家を振り返り振り返り残り惜し気にとぼとぼと下手へ入る。老侍女、手に色紙を持ったまま、暫らく呆《あき》れたように見送っていたが、やがて気がつき、部屋へ戻る)
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老侍女「奥様、奥様」
式部「なんですか」(式部、几帳から出て来る。黙って色紙を受取ろうと老侍女へ向って手を出す)
老侍女「奥様、ほんとに妙な人じゃございませんか。相当、いい男の癖に、何だか判らない事ばかり言って」(色紙を渡す)
式部「ああ、もう、話さなくっても、みんな陰で聴いていたよ。ありゃ、なんでもないんだよ。恋をするにも真正面に相手にぶつかって真心を打ち付ける気魄も無くなり、ただふわふわ恋の香りだけに慕い寄る蝶々のような当世男の一人さ。あっちの花で断られれば、こっちの花に舞い下ってみる。しかし、恋歌は流石《さすが》に手に入ったものだね」(口の中で読んで、色紙を破って捨てる)
老侍女「蝶々としたらほんとにいやらしい、暇つぶしの蝶々でございますねえ」
式部「けども、また、いじらしいところもある蝶々さ、そうお憎みでないよ」
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(式部再び机に向って筆を執る。老侍女は所在なさそうにまじまじ式部の様子を見入っている)
(夕暮に向う鐘、虫の音高くなる)
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老侍女「ねえ、奥様」
式部「なんです」
老侍女「今朝ほどから随分とお根詰めじゃございませんか。それじゃあんまり、お身体にお毒でございますよ」
式部「これだけは放って置いておくれ、物を書くのは、言って見れば、まあ、わたしの虫のせい[#「せい」に傍点]なのだからね」
老侍女「そうでございますか。何だか知りませんが、わたくしは、こちらへ参りましてから根のいい方をお二人お見受け申しました。一人は隣の庵室の聖《ひじり》さま、一人はうちの奥さま。恐らく世間にこれほど根のいい取組はございますまい。お一人は坐って西の方を睨《にら》みづめ、お一人は筆を握って書きづめ。やっぱり、お隣のも、虫のせい[#「せい」に傍点]でございますか」
式部「ほ、ほ、ほ、お隣のは虫は虫でも、だいぶ、真剣な虫のせい[#「せい」に傍点]のようだね」
老侍女「一たい、お隣の聖さまは、ああ昼も夜も坐ったきり西の方を睨んで何をしていらっしゃるんでしょう」
式部「そりゃ、行をしていらっしゃるのさ」
老侍女「行と申しますと」
式部「極楽へ行くお修行さ」
老侍女「へえ、ああやってると極楽へ行けますのでございますか」
式部「あのお方は行けるとお信じになっているのだよ。極楽は西の方に在るというから、その方へ身も心も向け切りにしていたら、いつか必ず極楽へ行けるとお信じになってるのだよ」
老侍女「本当でございましょうかしら」
式部「本当かも知れないし、本当でないかも知れない」
老侍女「嫌でございますわ、奥さま。それが若し本当でないとしたら、あの聖さまは一生無駄骨じゃございませんか」
式部「無駄骨であるか無いか、それは誰にも判らない」(式部はいつか筆を置いて、屈托気に頬を襟《えり》に埋めている)
老侍女(不勝手ながら胸の中で頻《しき》りに考え廻らしている様子あっての後)「ひょっとしたら骨折り甲斐が無いのかも知れませんでございますよ。何でもあの聖さまは毎日、陽が西の空に廻る時分から譫語《うわごと》を言うのでございます、半病人のようになって、わたくしは気味も悪いし、奥さまのお妨げになってもいけないと思ったので、申上げずにいましたが、頻りに焦慮《あせ》る様子を見ると、どうも覚束《おぼつか》ない様子でございますねえ」
式部「わたしも、薄々は気付いているが、声はよく聞
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