らず身体をしやんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまゝ殆《ほとん》ど音の聞えぬ楽器を奏でてゐます。私の魂は最後に、その人の胸元に向つて牙《きば》を立てます。噛《か》み破ります。
 ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合つたやうです。川はもう見えません。私自身が川になつたのでせうか。何だか私には逞《たく》ましい力が漲《みなぎ》り、野のどこへでも好き放題に流れて行けさうです。明るくて強い匂ひが衝《つ》き上げるやうな野です。もう私の考へには嫁入り苦労も老先《おいさ》きもないのです。
 いま男の誰でもが私に触つたら、ぢりゝと焼け失せて灰になりませう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとの儘《まま》、しづかに楽器を奏でてゐます。ただ今度の私は、大仏の中に入つた見物人のやうに、その人を内側から眺めるだけです。楽器の音が初めて高く聞えます。それは水の瀬々らぎのやうな楽しい音です。私はそこからまた再びもとの自分に戻るのには、また一苦労です。海山の寂しさを越えねばなりません。
 しかし私に取つてかういふ奇蹟《きせき》的な存在の人が、世間では私
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