愛よ愛
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)覚束《おぼつか》なき

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西洋|寝巻《ねまき》だ
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 この人のうえをおもうときにおもわず力が入る。この人とのくらしに必要なわずらわしき日常生活もいやな交際も覚束《おぼつか》なきままにやってのけようとおもう。この人のためにはすこしの恥は涙を隠しても忍ぼうとおもう。
 朝夕見なれしこの人、朝夕なにかしら眼新《めあた》らしきものをその上に見出《みいだ》すこの人。世間ではこの人をおとなのなかのおとなのようにいう。けれどもわたしにはこどもに見える。というわたしをこの人はまだこどものように見てなにかと覚束ながる。互《たがい》に眼を瞠目《みは》って、よくぞこのうき世の荒浪《あらなみ》に堪《た》うるよと思う。
 おいおいたがいに無口になって、ときには無口の一日が過《すご》される。けれども心のつながりの無《な》い一日では無い。この人が眼で見よと知らする庭の初雪。この人が耳かたむける軒《のき》の雀《すずめ》にこのわたしも――。
 むかし、いくたりの青年が、この人に競《きそ》い負けてわたしのまわりから姿を消したことであろう。おもえば相当に、罪を担《にの》うて居《い》るこの人である。けれどもこの人の、いまの静けさに憎《にくし》みを返す人があろうか。この人のわたしを庇《かば》い通した永い年月を他所《よそ》ながら眺めてその人達も恨《うらみ》をおさめて居るに相違あるまい。もういくたりの児《こ》の父となって。もし逢《あ》ってもその人達はこの人になつかしく差出《さしだ》す手を用意して居るに相違ない。そういえばわたしとてよくもこの人を庇い通した――おもえば氷を水に溶《と》く幾年月。その年月に涙がこぼれる。
 和服を着せれば幾日でもおとなしく和服を着ている。洋服を着せれば黙って洋服を着て居る。この人はまるで阿呆《あほう》のようだ。そのくせわたしの着物にはいろいろと世話をやく。あらい柄《がら》のものをわたしが着さえすれば悦《よろ》んで居る。ときには少女が着でもするような派手な着物を買ってさえ来る。わたしは訊《き》く「どうしてこんなものを」この人は答える「うちには娘が無《な》いからお前に着せる。でないと、うちのなかに色彩がなくて淋《さみ》しい」
 いくら忠告してもこの人が
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