しばらく楽な新味を貪《むさぼ》ろうとする。この錯覚の世界もまた当面に直視するとき立派な事実の認識として価値を新に盛って来るのだが、夫人はそれ程骨を折らない。ただ、イージーゴーイングに感覚がトリックにかかるのを弄《もてあそ》ぶだけだ。夫人の興味は直き次に移って犬のドクトルが部屋に呼び付けられた。老人の獣医は毎金曜、狆《ちん》の歯を磨きに午前中だけ通って来る。今も玄関の側部屋で仕事にかかって居たのだ。
老人が狆の健康状態の報告に入ろうとするのを押えて夫人は云った。
「珈琲を一つ交際《つきあ》って下さらない?」
老人は夫人に珈琲と云って与えられた椀の中のものをすぐ酒と悟った。元来酒好きの老人なのでそのまま居坐っていかにも浸み込むように飲む。夫人のトリックにかかって「酒か珈琲か」と飲み惑ってあわてふためき夫人の笑う材料になって呉れない。
「驚きましたな。驚きましたな」
と口では云うがそれがただ相槌《あいづち》のお世辞に過ぎ無い事は夫人にもよく判る。しまった、と夫人は想う。ドクトルはやはり寒い側部屋で酒に餓えさせ乍ら獣の黄色い牙を磨かせて置く方が興味価値があったのだのに。夫人はこれほどうまそうに飲む老人の嗜慾に嫉妬《ゼラシー》を感じた。
生々しい膝節を出してスカートのような赤縞のケウトを腰につけたスコットランド服の美貌の門番《ガードマン》が銀盆の上に沢山の「平凡」を運んで来た。
答礼の花束。
レセプションの招待状。
慈善病院の資金窮乏の訴え。
土耳古《トルコ》風呂の新築披露。
コナンドイル未亡人からとどいた神秘主義実験報告のパンフレット。
国際聯盟婦人会の幹事改選予選会報。等、ほかにまた一通夫人がしばらく手にとって眺めて居たものは古着払下げの勧誘広告だ。夫人の感情はこれに少し局部的の衝撃をうけた。
――失礼な――だがためしに売って見ようか――だが――。
午前十一時半。ふらんす風の正式の「昼の朝飯」前に夫人は居間附応接室で彼女の夫と朝の挨拶を交す。
モーニングの夫は眉を動かして、
「結構《グロリアス》な天気じゃないか、奥」
そして彼はあらゆる問題に五分から二十分間位討論する用意は持って居る。「イギリスがもし注意を欠くなら」という前提で。だが、それから永くなるとぐっと反身《そりみ》になって、
「むろん、わしよりもそちらがこの問題についてはセンシブルな意
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