――では私、汽車で帰る……だけど私今、お金ちっとも持たないの。イベット、済まないけど今居る安宿の諸払いとマドリッドまでの汽車賃とそれから当座のお小使だけあたしに呉れない。
[#ここで字下げ終わり]
イベットは何にも云わない。殆ど女の方を振り向いて見無かったが、女の言葉が終ると黙って頷《うな》ずいて手鞄を開け、金貨や紙幣を交ぜて女に渡した。女は指に白手袋の吸い付いて居るイベットの手を把《と》り押戴《おしいただ》く様に喜んだ。
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――有難うよ、イベット。じゃ、あたし仕度出来次第に早く此処を発つ。ね、マドリッドで逢いましょうよ。ね屹度《きっと》。またあたし、あんたの旧の家へ直ぐ訪ねるわ、ね。
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女は一人で承知してまた馳けるように帰って行った。勿論、あれ程つき纏った小田島が直ぐ眼の前に居ようが女は一瞥《いちべつ》もしなかった。
車を見送ったホテルの使用人達は皆引込んで行った。が、小田島はまだ大円柱の蔭に停んでイベットが残して行った轍《わだち》の跡を明るい軒燈の光で眺めて居た。と、まだ其処に一人の男が居て小田島の傍へ寄って来た。男は賭博場《カジノ》の切符台の四十男だ。
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――可哀相ですね、イベットは。とうとう国事探偵の嫌疑で国境まで追放です。
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小田島は何か相槌を打とうとした声が咽喉へ詰った。
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――惜しい娘だがこれ以上、ドーヴィルへあの娘を置くことは出来ません。あの可愛い利口な娘にかかっては、フランスが盗まれてなら無いものまで根こそぎ盗まれて仕舞いますからな。
――あなたはあの娘が、何か盗んだことでも知って居るんですか。
――は、は、は…………あまい恋人だね、あなたはフランス人というものをよく御存じ無いんですね。殊にこのドーヴィルの人間をね。市長始めわたし達はとうからあの娘が探偵だって事はよく知ってましたよ。
――それでよく今日まで、あの娘を此処へ置きましたね。
――しかし、直ぐ追い出しちまうにはあんまり可愛ゆい娘でしたからな。妙に魅力のある娘でしたからな。それであんまり害になら無いところまで此処に置いてやりました。ドーヴィルの花園の装飾にはいろいろ翼の模様の変った胡蝶が必要ですからな。
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