文豪の八ツ手の葉のような扁平な開いた手をつまんで地図を見るように覗き込んだ。宮坂のそのあまり熱心な様子が夫人に却って気軽な興味を覚えさせたらしく、夫人は一層乗出して来て夫の手の筋の説明を求めた。
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――少し、こまかいですが、常識が円満に発達しています」
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妻が此の宮坂の唐突の説明にあっけにとられて居るのをガルスワーシーは引きとった。
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――妻に世話を焼かす運命が手筋に出てはいませんか」
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ガルスワーシーの座興的なうけ答えのように一見其の場の光景はやはりちょっとした座興的なもののようには違いないが然し景子には笑えなかった。彼女は此の文豪の手筋を熱心に、と見こう見する宮坂の意図がどんなに切実なものであるかを知っていた。
宮坂は中学時代から創作家志望で、某大学の文科へ入ったのも其の為めであった。彼が創作の為めとして勉強する資料は創作の糧《かて》にはならずに学問の蓄積になった。創作はいくら書いても文壇には受け容れられなくて傍稼《わきかせ》ぎに書く文学講座の方がうけがよかった。彼を引立てている教授は言った。
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――君は学問の筋だよ。創作はあきらめ給え」
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そうして彼を無理に研究室に入れ、次いで助教授にした。然し彼はどうしても創作は思い切れなかった。学校の方が忙しくなってもう創作の筆は取れなくなったが、然し今に今にといって友人に会えば其の話に熱中した。彼が創作の話をするときには、まるで恋人の話をするような響を持った。
結婚して子供が二人も出来るようになっても彼は創作に対する恋を捨てなかった。しかも其の恋は愈々《いよいよ》外れて行くだけだった。彼はいつか運命ということを考え詰めるようになった。彼はしきりに手相に凝《こ》り出した。彼の幼な友達の景子の夫なぞもよく宮坂の手相見の稽古台にされてうるさがった。
彼が欧洲留学を命ぜられて大陸を歩いて居るうちにも歴訪した有名な文人達には一々手相を見せてもらって来たのであった。そして自分の手相と比較した。宮坂があのほろ苦い理智の匂う独逸の作家の名を挙げて「僕のはトーマス・マンのに一番似ているね」そういうときは如何にも嬉しそうだった。
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