一飯《いっぱん》の恵《めぐ》みに与《あずか》りたいのだ」
 そう受取るようになった店々のものは、掃除《そうじ》をしたあとで立つ少年を台所の片隅《かたすみ》に導いて食事をさせた。少年はなぜこれが早く判らなかったのだろうという顔つきをして、嬉《うれ》しそうに箸《はし》を取り上げる。
 少年には卑屈《ひくつ》の態度は少しも見えなかった。
 食事の態度は行儀《ぎょうぎ》よく慎《つつ》ましかった。少年はたっぷり食べた。「お雑作でがんした」礼もちゃんと言った。店の忙《いそが》しいときや、面倒《めんどう》なときに、家のものは飯を握《にぎ》り飯にしたり、または紙に載《の》せて店先から与《あた》えようとした。すると少年は苦痛な顔をして受取りもせず、踵《きびす》を返してすごすごと他の店先へ掃きに行った。坐《すわ》って膳《ぜん》に向うのでなければ少年は食事と思わなかった。
 少年は銭も受取らなかった。銭は貰《もら》ったこともあるが大概《たいがい》忘れて紛失《ふんしつ》するので懲《こ》りたらしい。
「あれは、どこか素性《すじょう》のいい家に生れた白痴なのだ」
「そう言えば、上品だ」
 町の人は、少年自身がわずかに記憶《きおく》している四郎という名を聞き取って四郎馬鹿と言ったが、四郎馬鹿さんと愛称をもって呼ぶようになった。

「四郎馬鹿さんに見舞《みま》われた店はどうも繁昌《はんじょう》するようだ」
 東北の町々にこういう風評が立った。だいぶ以前から四郎は、最初出現したS――の城下町にも飽《あ》いて、五六里|距《へだた》った新興の市へ遊びに行った。誰《だれ》か物好きに荷馬車にでも乗せて連れて行ったらしい。それから少年は町から町へ漂泊《ひょうはく》することを覚えた。汽車にも乗せた人があるらしい。奥羽《おうう》、北国の町にも彼《かれ》の放浪《ほうろう》の範囲《はんい》は拡張された。それらの町々でも少年の所作に変りはなかった。店先の掃除《そうじ》をして一飯の雑作に有りついた。誤解や面倒がる関門を乗り越《こ》して四郎の明澄性《めいちょうせい》はそれらの町々の人の心をも捉《とら》えた。
「四郎馬鹿さんに見舞われた店は、どうも繁昌するようだ」
 それには多分に迷信性と流行性があったかも知れない。しかし少年の一点の僻《ひが》みも屈託《くったく》もない顔つきと行雲流水のような行動とは人々の心に何か気分を転換《てんかん》させ、生活に張気を起させる容易なものがあったらしい。マスコットというものはそうしたものである。
 町々の人は少年を歓迎《かんげい》し始めた。少年の姿を見ると目出度《めでた》いと言って急いで羽織袴《はおりはかま》で恭《うやうや》しく出迎《でむか》えるような商家の主人もあった。華々《はなばな》しい行列で停車場へ送ったりした。少年の姿は絹物の美々しいものになった。町の有力者は言った。
「あの白痴を呼んで来るのは町の景気引立策にもいいですなあ」

 北国寄りのF――町の表通りに、さまで大きくはないがしっかりした呉服店《ごふくてん》の老舗《しにせ》があった。お蘭《らん》という娘《むすめ》があった。四郎はこの娘が好きでF――町へ来ると、きっとこの呉服店へ立寄った。四郎はお蘭の傍《そば》にいるだけで満足した。お蘭の針仕事をしている傍に膝《ひざ》をゆるめて坐って、あどけないことを訊《たず》ねたり単純な遊びごとをしたりした。小春日和《こはるびより》の暖かい日にはうとうと居眠《いねむ》りをした。ときに眼を覚まして、そこにお蘭のいるのを確めると、また安心して瞼《まぶた》をゆるめた。
 お蘭は、世の中の雑音には極めて怖《おび》え易《やす》く唯《ただ》一人、自分だけ静な安らかな瞳《ひとみ》を見せる野禽《のどり》のような四郎をいじらしく思った。彼女《かのじょ》はこの人並でないものに何かと労《いたわ》りの心を配ってやった。それは母か姉のような気持だった。こうしているうちに一つの懸念《けねん》がお蘭の心に浮《うか》んだ。あるとき彼女は四郎にこう訊《き》いた。
「もし、あたしがお嫁《よめ》に行くとき、四郎さはどうする」
 四郎は躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「おらも行くだ、一緒《いっしょ》に」
 お蘭は転げるように笑った。
「そんなこと出来ないわ。人を連れて嫁に行くなんて」
 四郎には判らなかった。
「どうしてだ」
「お嫁に行くということは私が向うの人のものになってしまうのだから、その人が承知してくれないじゃ、一緒に行けないのよ」
「お蘭さが誰かのものになるというだかね」
「そうよ」
「ふーむ」
 白痴の心にもお蘭が自分から失われ、自分は全く孤立無援《こりつむえん》で世の中に立つ侘《わび》しさがひしひしと感じられた。現われて来る眼に見えぬ敵を想像して周章《あわ》てはてた。
「お蘭さ、嫁
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