行きかけた。流石《さすが》に国太郎はそのまま僧を去らすわけには行かなかった。袖を控える。
 ――遊ぶって、あなたが遊びなさるのですか、その坊さんの服装で」
 すると僧は少し心配そうな顔になり
 ――はあ、この服装では登楼さして呉れませんかな」
 ――いや、そうじゃあ、ありませんが、だいぶ勇気がおありですな」
 僧はそれを聞いて安心したふうで頭に手をやり
 ――いや、まことに生臭坊主で」
 僧は流石に笠を冠って大門の中へ入って行った。国太郎の心には不思議なものが残った。

         四

 引手茶屋山口巴から使を出して招んだ得意客を待受け、酒宴をして居ると夕暮になった。
 相変らず酒宴の座を一人持ち切りで掻き廻している魯八の芸も今は国太郎にはしつこく鼻についた。さっき見た雲水僧の言葉態度が妙に心に引っかかっていた。やがて提灯《ちょうちん》に送られて、国太郎の連中はK――楼へ入った。K――楼に入ると直ぐに楼の女から雲水僧の到着を聞かされたので、国太郎の全身は殆ど僧に対する一つの探求心になって、客たちを成るたけ早く部屋々々へ引き取らせ、自分は馴染の太夫の部屋に起きていて終夜、魯八を間者《かんじゃ》に使って雲水僧の消息を一々探り取らせた。
 魯八の諜報に依ると、雲水僧は登楼して以来、普通の遊客と少しも違わぬコースを取った。それには僧は一々、相手方の女に問い訊しては、事を運ぶのであった。あまりに僧が子供のように色里の客になる態度を、人に正直に聞くので、それが可笑《おか》しいとて忽《たちま》ち楼中の評判になった。しかし、僧の相手になった女は、また余りにその僧の初心《うぶ》な態度に、どうやら其の僧が好きになった様子で何くれとなく親切にもてなしつつあった。その僧は男振りも立派で寧《むし》ろ美男だった。
 夜のしらじら明けに国太郎は帰り支度をして二階の階段を降りて来た。河岸の商売を間に合せるには、どうしてもこの時刻に出かけねば間に合わなかった。国太郎が階段を降り切ると、話し声が上に聞えて男女がもつれ合って階段を降りて来た。見ると男はかの雲水僧なので国太郎は、はっとして階段の蔭に隠れて様子を見ていた。
 雲水僧はすっかり女にうつつを抜かれた様子で、玄関で草鞋《わらじ》を穿くまで浅間《あさま》しいまでに未練気な素振りを見せて居る。これに対して女もきぬぎぬの訣《わか》れを惜しんでいる。僧はすっかり草鞋を穿き終えた。そしてすっくと立上って二三歩あるくとくるり[#「くるり」に傍点]と振向いた。その時、僧の顔は引緊って、国太郎が昨日、日本堤で見た平調に返っている。
 僧は言った。
 ――さて、おなご衆さん、わしはゆうべ持っとる金をすっかり費《つか》い果した。今朝の朝飯代が無い。あんたの仏道の結縁《けちえん》にもなる事だから、この旅僧に一飯供養しなさい」
 女は驚いた。
 ――まあ、随分ずうずうしいお客さんだわね」
 しかし僧は顔色一つ変えなかった。
 ――いや、今まではあんたのお客さんだったが、もうお客さんではない。ただの旅の雲水だ。もう二度と斯《こ》ういうところへ修業には来んでもよいだろう。まあ、そういうわけだから志しがあらば供養しなさい。なければ次へ行くまで」
 女はおかしがりながら、有り合せの飯を用意して来た。僧は上り框《かまち》に腰かけて、何の恥らう様子も無く、悪びれた態度もなく、大声をあげて食前の誦文を唱え、それから悠々と箸《はし》を執《と》った。その自然の態度を見入って居た女は何を感じたか、ほろほろと涙をこぼし掌を合せ僧を伏拝むのだった。違った店の気配に楼主その他も出て来て事情を聴き、何やかや持出して来たが、僧は淡如として言った。
 ――一人の腹だ、そうは入らんよ」

         五

 国太郎が、この僧を自宅に屈請《くっしょう》して教えを乞うたのは勿論である。
 この僧は後に明治の高僧となった。



底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
底本の親本:「老妓抄」中央公論社
   1939(昭和14)年3月18日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年2月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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