て異常な好奇心と憧憬から自分から進んで黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》のおかみさんになったのであった。全くの山の手のお嬢さん気質と、全くの下町の坊っちゃん気質と共通するところがあって彼女は国太郎にナイーブなところを見付けていた。国太郎はまたどうかしてこの教育ある令嬢出のおかみさんの尊敬を贏《か》ち得るような夫になろうと苦心した。
努めて下町のおかみさんになろうとする梅子は少しの悪びれたところも見せず「交際なら」と国太郎を遊里に出してやるようにする。国太郎も、官吏のお嬢さんを貰って側にばかりへばり付いて居るという非難を河岸の者から聴き度くない為め、精々交際は欠かさないようにする。そして、どこの里にも馴染《なじみ》という女の一人や二人はある。だがそれが何だ。子供の時から父親に連れられて出入りした遊びの巷《ちまた》に、今更パッショネートなものを見出すべくも無い。寧《むし》ろ梅子の側に居る時くらい歓びを感じるときは無い。それでいて梅子とは何一つしみじみした話をすることも無いのだ。ただ世間でお雛《ひな》さまのようと言われる美しい夫婦の顔を向き合って菓子位つまむだけだ。ここにも小笹屋の若旦那の大ふう[#「ふう」に傍点]が付き纏《まと》うのか。話をしたいのは山々だが、心からの言葉はつい自分の無教育をも暴露しそうな懸念があるので連れ添う妻に向ってさえ愛情が素直に口に出ないのだ。性情に被りついて仕舞った何という伝統の厚い皮だ。
――ちょっと伺いますが、吉原では何という遊女屋が有名ですか」
ついうかうかと考え込みながら見返り柳の辺りまで来た時に、斯《こ》う後から訊《き》く者があった。国太郎が振返って驚いた事にはそれは旅姿の若い僧であった。
――幾軒もありますが――まあ、K――楼などと言うのが一般に通っていますね」
国太郎はつい自分がこれから行こうとする青楼の名を言ってしまった。しかし若い僧は国太郎がじろじろ見上げ見下ろす眼ざしには一向|無頓着《むとんちゃく》になお進んで訊《たず》ねる。
――そこで遊ぶには最低、いくらかかりましょう」
国太郎は相手があまりに身分に不似合な問いを平気で訊ねるのに引込まれ、彼も極めて事務的に答える。
――左様、一円もあればいいでしょう」
――はあ、一円。こりゃ大金だわい。だが丁度持っとるて。ワハハハハハ」
若い僧は朗らかに笑って礼を言って行きかけた。流石《さすが》に国太郎はそのまま僧を去らすわけには行かなかった。袖を控える。
――遊ぶって、あなたが遊びなさるのですか、その坊さんの服装で」
すると僧は少し心配そうな顔になり
――はあ、この服装では登楼さして呉れませんかな」
――いや、そうじゃあ、ありませんが、だいぶ勇気がおありですな」
僧はそれを聞いて安心したふうで頭に手をやり
――いや、まことに生臭坊主で」
僧は流石に笠を冠って大門の中へ入って行った。国太郎の心には不思議なものが残った。
四
引手茶屋山口巴から使を出して招んだ得意客を待受け、酒宴をして居ると夕暮になった。
相変らず酒宴の座を一人持ち切りで掻き廻している魯八の芸も今は国太郎にはしつこく鼻についた。さっき見た雲水僧の言葉態度が妙に心に引っかかっていた。やがて提灯《ちょうちん》に送られて、国太郎の連中はK――楼へ入った。K――楼に入ると直ぐに楼の女から雲水僧の到着を聞かされたので、国太郎の全身は殆ど僧に対する一つの探求心になって、客たちを成るたけ早く部屋々々へ引き取らせ、自分は馴染の太夫の部屋に起きていて終夜、魯八を間者《かんじゃ》に使って雲水僧の消息を一々探り取らせた。
魯八の諜報に依ると、雲水僧は登楼して以来、普通の遊客と少しも違わぬコースを取った。それには僧は一々、相手方の女に問い訊しては、事を運ぶのであった。あまりに僧が子供のように色里の客になる態度を、人に正直に聞くので、それが可笑《おか》しいとて忽《たちま》ち楼中の評判になった。しかし、僧の相手になった女は、また余りにその僧の初心《うぶ》な態度に、どうやら其の僧が好きになった様子で何くれとなく親切にもてなしつつあった。その僧は男振りも立派で寧《むし》ろ美男だった。
夜のしらじら明けに国太郎は帰り支度をして二階の階段を降りて来た。河岸の商売を間に合せるには、どうしてもこの時刻に出かけねば間に合わなかった。国太郎が階段を降り切ると、話し声が上に聞えて男女がもつれ合って階段を降りて来た。見ると男はかの雲水僧なので国太郎は、はっとして階段の蔭に隠れて様子を見ていた。
雲水僧はすっかり女にうつつを抜かれた様子で、玄関で草鞋《わらじ》を穿くまで浅間《あさま》しいまでに未練気な素振りを見せて居る。これに対して女もきぬぎぬの訣《わか》れを惜しんでい
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