ふる》い問屋であり、父親の抜目の無い財産の建て方から、四日市裏の自宅の近所に多少の土地と家作も持ち、金融力と信用はある方だったが、国太郎の代になってからの此の貸借逆調の挟み撃ちには、いつか持ちものを切り縮めて行って、差当り生活の為め必要な現金さえ此頃は妻が気を利かして里方から色々の口実で少しずつ引出して来るものを黙って使い繋いでいる羽目《はめ》になっていた。
世間は案外敏感で、小笹屋の暖簾《のれん》も、と噂する陰口は河岸ばかりでなく、遊びつけの日本橋、柳橋あたりの遊里にまで響き、うっかりしたお雛妓《しゃく》の言葉使いにも隠されぬ冷淡さがあった。そこで、近頃はまだ噂の行き亘らぬ吉原方面に場所を変え、そこを取引先との交際場にも、自分の憂さ晴らしにも使うようになった。そして不思議なことには斯《こ》ういう羽目になるにつれ、国太郎の大ふうは、ますます増長して、損得の算盤《そろばん》からは遠ざかって行った。
それは痩我慢《やせがまん》とも捨《す》て鉢《ばち》とも思えるものだった。しかし一番底の感情は、都会っ児の彼の臆病からだった。彼は斯ういう態度を取って居なければ直ぐに滅入った気持ちに誘い込まれた。
――こりゃ全く破滅の坂道だ」
根が愚鈍でない国太郎にはすべての筋道が判っていた。お坊っちゃんが――旧家が――滅びる筋道はこれ以外には無かった。そしてそれを免《まぬが》れる遣《や》り方も彼には判っていた。それは簡単だった。時代並みの商人になればそれでよかったのだ。貸越しをもう少し催促して取立て、前借りをもう少し引緊めて拒絶する。その代り売値の価を廉《やす》くする。この手心一つにあった。結局、河岸の伝統を捨てて普通の商人の態度になればよかったのだ。英雄|気質《かたぎ》を捨てて凡人に還ればよかったのだ。
そしてこの事は、もう河岸でもそう恥かしい事ではない。軒並みに伝統の気質と共に並用されて来て而《しか》もその態度を採用するものほど繁昌し、採用しないものほど店が寂《さび》れて行く徴候の著《いちじる》しいのが目につく。そう判っていながら国太郎にはそれが出来なかった。小笹屋の若旦那! この言葉一つに含む一切の虚栄心が折角、覚悟した何もかもを彼から吹き飛ばして、彼を芝居に出て来る非現実な江戸っ児気質のお坊っちゃんのようにしてしまうのだった。
――ねえ、若旦那、すまねえが」
斯う言われると彼は腹で歯噛みをしながら「いけない」とは決して口へは出されなかった。
感慨がしきりに催して来た国太郎がうつろに眺めている往来の泥濘に幾十百かの足は往来したが、彼の店には一つも入って来なかった。自分のところの店番の若者と小僧の足袋跣足《たびはだし》の足が手持無沙汰に同じ処を右往左往する。眼を挙げて日本橋を見ると晴れた初夏の中空に浮いて悠揚と弓なりに架《か》かり、擬宝珠《ぎぼうしゅ》と擬宝珠との欄干《らんかん》の上に忙しく往来する人馬の姿はどれ一つとして生活に自信を持ち、確とした目的に向って勇ましく闘いつつある姿でないものは無い。「それに引きかえ自分一人は、没落の淵にぶくぶく沈みつつあるものだ」こう思えて仕方がなかった。彼は舌打ちをして店の者に言った。
――もう店をしまえ。おれはこれから客人の交際《つきあ》いに直ぐ吉原へ行くから。家へ帰ったら、おかみさんにもそう言っといて呉れ」
三
日本堤まで人力車で飛ばして、そこから国太郎はぶらぶら歩き出した。すべてが惰性と反撥で行動しているように思える自分について、もう少し考えたかった。青楼へ上ってしまえば自省も考慮ももうそれまでだった。昼の日本堤は用事のある行人で遊里近い往還とも思われなかった。藁葺《わらぶき》屋根を越して廓《くるわ》の一劃の密集した屋根が近々と望まれた。日本建ての屋根瓦のごちゃごちゃした上に西洋風の塔が取って付けたように抽《ぬ》き立っていた。すべてが埃《ほこり》に塗《まみ》れて汚らしく、肉慾で人を繋ぐグロテスクで残忍な獄屋の正体をありありと見せ付けられる感じがした。空だけが広く解放されていて、そこに鳶《とんび》と雲がのびのびと泛《うか》んでいた。国太郎がこの堤を歩くのは今が始めてではなかった。彼はどこの遊里へ入る前にも俥《くるま》を下りてしばらく歩くのが癖だった。遊里へ入る前ほど彼の気持を厳粛にし反省深くするときはなかった。そしてそのときほど彼は彼の若き妻を想うときはなかった。
相当の地位の官吏の娘と生れ、英語塾で教育を受けた彼の妻の梅子は、当時に於てはモダンにも超モダンの令嬢である筈だ。ところが歌舞伎芝居が好きで、わけて[#「わけて」に傍点]田之助びいきの処から、其の楽屋に出入りしているうち同じ贔負《ひいき》の国太郎と知り合い、官吏の家庭とはまるで世界の違う下町生活の話を聴い
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