とと屋禅譚
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)左程《さほど》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)英雄|気質《かたぎ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あるじ[#「あるじ」に傍点]
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         一

 明治も改元して左程《さほど》しばらく経たぬ頃、魚河岸《うおがし》に白魚と鮎《あゆ》を専門に商う小笹屋という店があった。店と言っても家構えがあるわけでなく鮪《まぐろ》や鮫《さめ》を売る問屋の端の板羽目の前を借りて庇《ひさし》を差出し、其《そ》の下にほんの取引きに必要なだけの見本を並べるのであった。それだからと言って商いが少ないと言うわけではない。
 なにしろ東京中の一流の料理屋が使う白魚と鮎に関する限りは、大体この店の品が求められるので、類の少ない独占事業でなにかにつけて利潤は多かった。第一、荷嵩《にかさ》の割合に金目が揚がり、商品も小綺麗な代物なので、河岸の中でも羨《うらや》まれる魚問屋の一軒だった。
 あるじ[#「あるじ」に傍点]の国太郎は三十五六のお坊っちゃん上り、盲目縞《めくらじま》の半纏《はんてん》の上へ短い筒袖《つつそで》の被布《ひふ》を着て、帳場に片肘かけながら銀煙管《ぎんぎせる》で煙草を喫《す》っている。その上体を支えて洗い浄められた溝板《どぶいた》の上に踏み立っている下肢は薩摩《さつま》がすりの股引《ももひき》に、この頃はまだ珍しい長靴を穿《は》いているのが、われながら珍しくて嬉しい。その後に柳橋の幇間《ほうかん》、夢のや魯八が派手な着物に尻端折《しりはしょ》りで立って居る。魯八は作り欠伸《あくび》の声を頻《しき》りにしたあとで国太郎の肩をつつく。
 ――ねえ、若旦那、もう、お客が来ねえじゃありませんか。さあ、この辺で切り上げましょうよ」
 ――おまえみたいな素人《しろうと》にお客が来るか来ねえか判るもんか。見ろ、まだ九時過ぎだ。あと一稼ぎしなきゃあ、今日のおまんまに有り付けねえ」
 国太郎はそう言ったが、自分の冗談が幇間の気持ちの上にどんなに響くかちょっと顔を後へ向けて魯八の顔を見る。ちゃんと知ってて魯八は如何にも大ぎょうな声を張り上げる。
 ――今日のおまんまに有り付けねえとはよく言ったね。お大名はエテ、そういうせりふ[#「せりふ」に傍点]を吐いて
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