考えられるのである。日本で想像して居たより独逸《ドイツ》人の技巧は大まかだ。影か、骨か、何かが一《ひと》けた[#「けた」に傍点]足りなくて、あの徒《いたず》らに高い北欧の青空の下に何処《どこ》か間の抜けた調子で立ち並んでいるのであった。日本の建築が独逸のそれを模倣《もほう》しているのは一見明白であるが、実物で無い、独逸建築の写真で見た感覚から、多く此《こ》の抜け目の無い効果を学びとったのであろう。かの女達が伯林で、現在眼の前の実物を観|乍《なが》ら、その建築物の写真の載った写真帖《しゃしんちょう》など見並べると、驚く程《ほど》、其《そ》の写真の方が、線の影や深味《ふかみ》が、精巧な怜悧《れいり》な写術《しゃじゅつ》によって附加されている。その写真帖を、そのまま、日本へ持って帰り、日本の人に見せるのは、少し、そらぞらしい嘘をつくようなうしろめたさを覚えた。が、それかと言って、その写真が計画的に修正でもしてあるわけでもなし、それは何処《どこ》までも、その独逸建築をありの儘《まま》に写した写真なのだから仕方がない。人間の顔を写してもそうなのだ、平たい陰影の少ない東洋人の顔より、筋骨《きんこつ
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