るの。
――そうさ。
――そんな事言えば、いくらだってあるわ。私が他所《よそ》から独《ひと》りで帰って来る――すると時々パパがうちから出迎えてだまって肩を抑《おさ》えて眼をつぶって、そして開《あ》けた時の眼が泣いている。こんなことも?
――うん。
逸作は一寸《ちょっと》面倒らしい顔をした。
――そう、そう、その事ね。私たった一度山路さんとこで話しちゃった。そしたら山路さんも奥さんも不思議そうな顔して、「何故《なぜ》でしょう」って言うの。「大方《おおかた》、独りで出つけない私が、よく車にも轢《ひ》かれず犬にも噛《か》まれず帰って来たって不憫《ふびん》がるのでしょう」って言ったら、物判《ものわか》りの好《よ》い夫婦でしょう。すっかり判ったような顔してらしったわ。「私のこと、対世間的なことになると逸作は何でも危《あぶ》ながります」って私言ったの。こんな事も抒情的なの。
――だろうな。
逸作は自分に関することを、じかに言われるとじきにてれ[#「てれ」に傍点]る男だ。
――序《ついで》に私、山路さんとこでみんな言っちまった。世間で、私のことを「まあ御気丈《おきじょう》な、お独り子を修行《しゅぎょう》の為《ため》とは言え、よくあんな遠方《えんぽう》へ置いてらしった。流石《さすが》にあなた方はお違いですね。判ってらっしゃる」って、世間は単純にそんな褒《ほ》め方ばかりしてます。雑誌などでも私を如何《いか》にも物の判った模範的な母親として有名にしちまいましたが、だが一応はそういうことも本当ですが、その奥にまだまだそれとはまるで違った本当のところがあるのですよ。そんな立ち勝《まさ》った量見《りょうけん》からばかりで、あの子を巴里《パリ》へ置いときませんって、――巴里は私達親子三人の恋人です。三人が三人、巴里《パリ》に居《い》るわけに行きませんから、せめて息子だけ、巴里って恋人に添わせて置くのを心遣《こころや》りに、私達は日本って母国へ帰って来ましたの。何も息子を偉《えら》くしようとか、世間へ出そうとか、そんな欲でやっとくんでもありません。言わば息子をあすこに置いとくことは、息子に離れてる辛《つら》い気持ちとやりとりの私達の命がけの贅沢《ぜいたく》なんですよ。…………てね。
かの女は自分がそう言って居るうちに、それを自分に言ってきかせて居るような気持《きもち》になってしまった。
――ねえパパ、こんな処《ところ》へ朝っから来て、こんなこと言ったりしてることも私の抒情《じょじょう》的世界ってことになるんでしょうね。
――ああ、当分、君の抒情的世界の探索《たんさく》で賑《にぎや》かなことだろうよ。
逸作は、息子の手紙を畳《たた》んだりほぐしたりしながら比較的実際的な眼付きを足下《あしもと》の一処《ひとところ》へ寄せて居た。逸作は息子に次に送る可《か》なりの費用の胸算用《むなざんよう》をして居るのであろう。逸作の手の端《はし》ではじけている息子の手紙のドームという仏蘭西《フランス》文字の刷《す》ってあるレターペーパーをかの女はちらと眼にすると、それがモンパルナッスの大きなキャフェで、其処《そこ》に息子と仲好《なかよ》しの女達も沢山《たくさん》居て、かの女もその女達が可愛《かわい》くて暇《ひま》さえあれば出掛《でか》けて行って紙つぶてを投げ合って遊んだことを懐しく想い出した。
逸作が暫《しばら》く取り合わないので、かの女も自然自分自身の思考に這入《はい》って行った。
暫くしてかの女が、空に浮く白雲《しらくも》の一群に眼をあげた時に、かの女は涙ぐんで居《い》た。かの女は逸作と息子との領土を持ち乍《なが》らやっぱりまだ不平があった。世の中にもかの女自身にも。かの女はかの女の強情《ごうじょう》をも、傲慢《ごうまん》をも、潔癖《けっぺき》をも持て剰《あま》して居た。そのくせ、かの女は、かの女の強情やそれらを助長《じょちょう》さすのは、世の中なのだとさえ思って居る。
人懐《ひとなつ》かしがりのかの女を無条件に嬉《よろこ》ばせ、その尊厳《そんげん》か、怜悧《れいり》か、豪華か、素朴か、誠実か、何でも宜《よ》い素晴らしくそしてしみじみと本質的なものに屈伏《くっぷく》させられるような領土をかの女は世の中の方にもまだ欲しい。かの女はそういうものが稀《まれ》にはかの女の遠方《えんぽう》に在《あ》るのを感じる。然《しか》し遠いものは遠いものとして遥《はる》かに尊敬の念を送って居たい。わざわざ出かけて行って其処《そこ》にふみ入ったり、附《つ》きまつわったりするのは悪《あく》どくて嫌だ。かの女はそんな空想や逡巡《しゅんじゅん》の中に閉じこもって居る為《ため》に、かの女に近い外界からだんだんだん遠ざかってしまった。かの女は閑寂《かんじゃく》な山中のような生
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