その男は睡つて正體なく、
髮はぼうぼうとのびて、
さながら醉ひどれの如し、
泥の如し。

鳥は巣に鳴き、
風は林を吹く。
ああ眠れる日はどろんとよどんで、
今大洋の水平線上を行く。

この男に聲をあたへ、
この男をゆりさまし、
この男に閃をあたへ、
この男を立たしめよ!

  惠まれない善

自分は善を欲する、
自分は善を欲する、
何ものにも惠まれない善、
あえかな微笑、
遠い大洋のなかに涙する鳥、
帆なく舵なく眠れる船、
その黒い脣に、
齒は白く露出《むきだ》して、
永遠の海底《うなそこ》を行く魚の如し。

ああ波切る舳《みよし》、
空映す波、
不斷に帆桁きしる風は、
目に見えぬ黒い旗の如し。

ああ何もの、
何もの、
この力あたへる眞空《しんくう》の内、
一物の響なし、
一物の響なし。

  死の歌

『おまへはどこから來た』と夜《よる》の木《こ》の葉がささやく。

『おれは冬の地平線の先きから來た、
まだ夜《よ》の明けない土地から來た』と風がささやく。

『ああおまへの聲はすごい、
お前の聲は弱弱しく、
かすかだが、
いつまでも耳を離れない』と木の葉がささやく。

『それはさうだ
おれは死の地《ち》、死の陰《かげ》に坐せるものから來た。
永遠に光のない土地から來た』と風がささやく。

彼等は互ひに見つめあつた、
木の葉はそよいだ、
風はそよそよと吹いた。
彼等は耳こすりした。
接吻した。
それから風は行く果も知らず飛んで行き、
木の葉はたえ間もなく身をふるはせた。

『ああおまへはどこから來た、
どこから來た』と暫くあつて木の葉はまたそよいだ。

『おれは遠くから來た、
光のない土地から來た、
今來たもののあとへ續いて來た』と別の風がささやいた。

『ああおまへの來るのは止む間もない、
あとからあとからと續いて來る』と木の葉がささやいた。

『それはさうだ、
おれは永遠の意志だ、
行つて行つてとまる事がない』と風はそよそよと吹いた。

『おまへの來るところには寒氣がする、
おまへの來るところには氣持よい影がない、
おまへの來るところにはあらゆる生きたものが、
すがれてしまふ』と木の葉がささやいた。

『それはさうだ。だがあれを見ろ』と風はささやいた。
彼等は闇の中に目をやつた、
ひときは光をまして星が輝いてゐた、
遠い闇底に涙のやうににじんで大きく輝いてゐた。

その星は悲しまず、
嘆かず、
永遠の闇の中に一段と光をまして、
輝いてゐた、
寒空のなかに。

彼等は暫く默つてゐた、
そして再び彼等も耳こすりした。
接吻しあつた。
風はそよそよと果もなくふいてゆき、
木の葉はまた一としきり身を烈しくふるはせた。

  夜曲

[#天から4字下げ]離れてゐる彼女に贈る

靜かな世界で、
おれは君に語る。
ねがはくは君は永遠にわかくあれ、
ねがはくは君は永遠に微笑してあれ、
ねがはくは君は永遠に心靜かであれ。
よし眠つてゐるとも、
よい夢を見んことを。
よい夢を見てつまらぬものに、
さまされないことを。

ああガラス窓にうなる蠅ひとつ、
赤くとろ/\と沈む西日、
ああ暮るる夜《よる》、
永遠の夜《よる》、
ねがはくはその暗に君にあいそよく、
美しい星あれ、
底びかりする星あれ、
なつかしい星あれ。

ああわれは君のかつて見た海をわすれず、
君の遊んだ濱を忘れず、
その海によな/\うつる星のごとく、
荒いうねりに影うつす星のごとく、
われは君をば思ひだす、
われは君をば思ひだす。

  幸福

幸福といふものは鳥見たいなものだ、
この廣い野原の中にゐる。
聲が聞えるのはまだしもいい、
聲も形もかいくれ解らぬ事がある。
だがこの鳥を一度掴まへたらしめたものだ、
今度は掴まへた彼れがその鳥になる。
いくら何《なん》か出て來て邪魔したつて
もう駄目だ。
芥子粒《けしつぶ》のやうに小さくなつて、
夙《とつく》に向うを飛んでゐる。

  嵐の中で

嵐に打たれてゐる人間はいふ、
おれは嵐の中だ、
おれのまはりは眞暗だ、
この風はどうだ、
だがその一陣の疾風の上に、
嵐雲《あらしぐも》の上に、
一羽の金の鳥が流れる樣に平圓を描く。

  熱を病んでる星

私は天上で無類の星だ、
綺麗な星だ。
だが自分はいろんな病ひにせめられてゐる、
むしむしした天上の惡熱だ!
ああ毒ガス!
だがこの毒ガスの中に渦卷いてる
この苦しさを見ろ。
毒ガスにたたられてゐるのだ、
この黒赤いまはりの空氣に。

ああおれの赤くいき苦しい光が見えるか、
熱にをかされてる赤い光が見えるか、
それはおれだ。
おれは默つてゐる。
依然として默つてゐる。
しかし之れはいいのだ。
おれは段々高熱に惱むだらう。
しかし之れは今迄病まないでゐた時より、
よくなつてゐるのだ。
おれは病むだらう、
今迄よりもつと高熱が出るかも知れない。

おれは今迄冷たい空を歩いた、
おれは太陽の光を反射したばかりであつた、
だが自分の光を出さずにゐられなくなつた、
ああおれのまはりは何て寒いのだらう。

  泣けよ

自分は君が泣くことを許す、
自分は君が泣くことを許す、
ああ泣けよ泣けよ、
汝の魂はその涙に洗はれん、
汝の心はそのために、
暗底《やみぞこ》の星の如く雨にぬるゝとも、
しめるとも、
更にそれによりて光をまさん。

ああ泣けよ、
泣けよ、
汝の心の底より汲み出して、
涙なきまでなけよ。

汝の涙はかわくことなし、
汝の涙は海より出づ、
汝の涙は雨後のすきとほれる海より出づ。

ああ泣けよ泣けよ、
汝の自然のために泣けよ、
われは泣くべきものに泣かざる人を愛せず、
嵐のあとのきよき野の如き顏せざる人を愛せず、
ああ泣けよ泣けよ。

  誰が知つてる

汝《おまへ》は愚鈍な木である。
葉はしげり、
梢はのび、
春が來れば、
花が咲き、
鳥も來て鳴く。

だが汝《おまへ》は愚鈍な木だ。
いくら花が咲いても、
鳥が來て鳴いても、
葉が茂つても、
梢が延びても、
汝《おまへ》は愚鈍な木に違ひない。

だがこの木が、
あの底光りする天上の一つ星を見てゐるとは、
誰れが知らう。

あの凄い底びかりする星を見てゐるとは、
誰れが知らう。

  曲つた木

或る木は若木《わかぎ》のとき痺《しび》れ藥《ぐすり》をのまされた。
彼れは一生花も咲くことなくひよろりと大きく伸び育つた。
そこで通りかゝりの人間は變つた木だと、
その高い梢をながめた。

ところが不思議なことから、
梢に一つ花が咲いた。
ほんの小さい形ばかりの花だ、
そこで奇蹟が始つた。

彼れは舊來の毒血《どくち》に謀反をおこした、
そして身をもがき出した。

彼れには今二つのどちかが必要だ、
この過去の怨靈《をんりやう》を嘔吐《おうと》するか、
またはこの痺《しび》れ藥《ぐすり》以上の毒消し藥を飮むか……

だがさうしてる内に冬がやつて來た、
そして雪が降つた、
どんどん降つた、
眼もあけられない位降り込めた、
一と月も二た月も……

彼れは舊來の毒のきゝめで方々の節々《ふしぶし》が凍るやうな痛さを感じた。
何だか膸のあたりが筋《すぢ》をひいて痛み出した。
しかし心では重々しく思つた、
――ああ盛なる自然よ、
このどんどん降る雪のすばらしさよ。

  被虐待者

寒む風のなかで私は幾人かの借金取りに逢つた。
どれもこれも業突く張りだ、
無理矢理おれから財布をとり
着物をとり、肌着一枚にした。
やがてその肌着もとつて自分を丸裸にした。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
(おお烈しい吝嗇坊《けちんばう》どもよ
 取ることより知らない人鬼達よ
 最後の一匹まで逃しまいとする虱取り!)
[#ここで字下げ終わり]

さて此處でおれは丸裸にされて鳥渡することに困つた。
何だか平常《ふだん》と勝手が違つて鳥渡の間途方にくれた。
ところで傍に河があつたのでいきなりそれへ飛込んだ。
借金取りはびつくりして暫時あつけにとられた。
その間におれはずんずん泳ぎ出した。

やがて彼れ等はうしろから不意に喝采した。
今おれから取つた肌着股引着物を振つて喝采した。
だがおれはそんなものには目もくれずずんずん泳いだ。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
(そんなにおれのする事が面白く見えるなら、
 ちと君達もやつて見ろ!
 若くはこの寒ざらしの風のなかで、
 せめて眞裸《まつぱだか》にでもなつて見ろ!
 だがこれだけは考へて置け、
 おれのする事は眞面目だが、
 君達がすると醉興になるといふことを!)
[#ここで字下げ終わり]

ああ身を切るほど冷《つめた》い河水を對岸《むかうぎし》を目あてにして、
あの雪に埋れた對岸を目あてにして、
おれは泳いで行く。

あああの對岸《むかうぎし》の美しいことよ、
向うの景色の鮮明なことよ!
私の心臟は寒さと四肢《てあし》の烈しい動きと、
それにまたこの美しい景色を見る感動とで、
つぶれるやうだ。
それでも私は泳ぐ、
なほなほ泳ぐ。
溺れるか乘り切るかそれは知らぬ。
唯だ私はこの胸に脈打つ心臟と同じく、
動き出したら止まない力で前へ前へと泳ぎ出す。
[#地から1字上げ]3 ※[#ローマ数字12、1−13−55]

  冬越しの牧場

千年を千度《せんた》び重ねてわれ等祖先のうへに溯る、
私は太古の穴居時代の夢を見た。
幾千年は瞬くまにすぎて、その鐘乳岩の壁かがやく洞窟で、
私は最後に見つけた、ああ、その一とつまみの青草を!

いま私は現實の野外にゐる、
そこには冬越しの青草が可愛げもなく色褪せて生えのこる。
しかしこの草がいつか桃色の花咲くときを感じて、牧場の柵に今いつまでもいつまでも倚つかかる……。

あたたかく春風は吹いた、
雪はとける、
日は赤い。
[#地から1字上げ]3 ※[#ローマ数字10、1−13−30] 10

  小さい花

灰色の季節、
鉛色《なまりいろ》の雲、
白い粉《こな》のやうな雪がチラ/\降り、
そしてその雪で包まれた野原に
紅《あか》い小さい花が咲く。

おお紅い小さい花が咲く、
その花に私はものをいふ、
お前は何時生れ、
何時育ち、
何時蕾をもち、
そして何時その眞中《まんなか》に黄色い蕋を持つ小さい花を開いたか。

私は旅人《たびびと》だ、
私はひとりぼつちだ
私は灰色のながい季節を迎へ
鉛色の雲を上にいただき
身にはチラチラと粉雪を受ける。

ああ赤い日が霧のなかにおぼれてゐる。
風は泣くやうにそよそよと吹く。
そのなかにお前は瞳のやうに咲く。
[#地から1字上げ]5 ※[#ローマ数字6、1−13−26] 13

  天上の戀

曉の眞蒼《まつさを》な空のうへに、
赤い雲が一と切れ浮んでゐる。
地上には嵐が吹いてるが、
人は未だ覺めない。

私は寢轉んで、
莨をのんでゐる。
布團の上にゴロ寢をしてるが、
まるでどこかの草原にでも寢てる樣だ。
屋根屋根は灰色《はひいろ》で、
空はまつさをで、
その中に赤い雲が一と切れふはりと浮んでゐる。

その時私の心の中で蟲の樣なものが一心《いつしん》に鳴いてゐる。
――ああ、戀だ、
もつともつらい戀だ!
さうに違ひない、
暗い、
盲目《まうもく》なもの、
耳にぢぢぢ……とひつきりなく鳴く。

――ああ、戀、
戀!
私はこの美しい、嵐の中の眞蒼な靜かな天、
綺麗なヒステリーの女の眼のやうな天を、
今戀してるのだ……
[#地から1字上げ]5 ※[#ローマ数字6、1−13−26] 21

  番人の娘を戀ふ

お前の心にゑりつけよう、
私の心の底の文字を……
お前はそれを讀むか、
ああ黒い吾が夜々《よなよな》の夢よ。

わが夢は夜毎その字の意味を解き聞かせる。
ああ斯うしてつもりつもつた幾夜、
或る晩窓を開き、
遠くに光る星を見、
暗の中に搖れる樹を見、
つきなんとしてるお前の家の
有明《ありあけ》の灯《ともしび》を見る。

ああこの闇の庭に來て鳴け、
可愛いい雌鹿。
ああこの闇の庭に來て鳴け、
可愛いい雌鹿。
お前の夜を守《も》る灯《ともし
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