。また其れと同じ程度にこれを世に出す熱心を持たない。公衆? 公衆とは何? 藝術は公衆相手の仕事であらうか。私はセザンヌがわが描きをはれる畫を家の藪に常に棄てた心事をよく了解する。私にとつて制作はその瞬間出來る限りたのしまれたる生の活動の氣高い一片である。私は此歡ばしい活動のため少年の如く熱心にその制作に沒頭する。それは悲哀の絶頂すらこの活動によつて慰められる。この生の活動より來る自然にして完全なねぎらひ、それは私等藝術に從ふものゝ行ふと共に常に報いらるゝ合理の報償である。私は人氣を願はない。私は生の報いは常に受けてゐる。そして私は常に快活である。
もし私が自己の作を世に敢て出すとすれば、それは吾が悲しむごときことに悲しみ、また怒るごときことに怒り、たのしむごときことに樂しみ、悦ぶごときことに悦ぶ私のそれと心情をともにする世の隱れたる未知の兄弟姉妹を思ふからであつて、それ等の人は恐らく私の拙劣なる作の部分をも、その類似する心理からして、巧みに私の訥辯中の眞意を捉へてくれると思はれるからにある。私は隱れたるこの未知の人々が私のこの集を待つてくれる心地がする。運命の逆と私自身の不熱心よりして
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