@き氣せられるより用ひた言葉である。なほ蟋蟀は彼地にては當夜あたりまで爐邊に棲息するが如し。
[#ここで字下げ終わり]

  苦惱

わたしの心|惡鬼《あくき》のやうに物皆かなぐり棄てて髮振り亂し、
この人生に立ち迎へ、おお!
恍惚の日、初めて脣と脣を合せた日、一週日のあと、
この險惡な嵐の心にわたしは落つ。
おお何ものがわたしを斯くするか、斯くするかよ!
雨よ打て、わが鞭となり、
風よ吹け、その夜の黒い汁を無限にゆらめかし、
そして此の惱みに沈む青年の亂髮を思ひのまゝに梳づれ。

ああ生は見よ、私のために高く攀ぢがたい門となつた。
ああ戀人よ、遠くに靜かに眠る戀人よ、
身はのめり、魂は死し、
その上に狼は
足を踏まへて闇のなかに吠える!
[#地から1字上げ]8 ※[#ローマ数字1、1−13−21] 2

  過去

自然は私に教へた、わたしの心は青く硬《かた》い果《このみ》のやうであることを。
わたしの今の時期はああ、その果《このみ》を眞茂《ましげ》る葉から日にさしのばす初夏の時期
わがために短かつたあの春は嵐の哮《たけ》りに、暗い氷雨《ひさめ》の打撃《うち》に、
さむい天氣の打續きに、
幾團の花はもぎとられてしまひ、
殘りのものに何時知らず孕みし果《このみ》……

おお指折り數へよ、この可憐《いたいけ》な生のしるし、
心細くも青天井の空を葉越しに垣間見て、
今むかへるや無辜の石室《いはむろ》の囚人のやうに、
この華《はなや》かな七月の日を!

おお幼年の時から青春まで幾つのわたしの絶望、荒い心の傷、あの黒い吐血の追憶《おもひで》、
今この美しい空のもとに何事もなく、
すべては清けだち、晴れ晴れし、萬《よろづ》のもの賑かに、
木下《こした》の風はなかを無心に吹きめぐる……

さらにその微風に乘つてひびいて來る優しい羽音、
わが華奢な明るい戀人、黒と黄だんだらの尾の蜜蜂、
荒い自然の搖《ゆす》ぶりも、今は吾れには唯だ唄とのみなる……
[#地から1字上げ]8 ※[#ローマ数字4、1−13−24] 17

  出發

私の生活は始まつた。
野中の二岐路《ふたまたみち》に咲く黄色の蒲公英《たんぽぽ》、
そこには吾が過去の脱衣所あり、
吾が裸足《はだし》の足を立つべき芝草の褥《しとね》あり、
季節は春、その朗らかな晝空に漂ふ白い雲、
この雲のため、ああこの雲のため、私は一生
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