或る人の覺えてゐるのはまだ乳呑兒の頃に、枕の傍で添伏しの母の懷のなかから、樂しく聞いた時計のオルゴオルの音色《ねいろ》である。また或る人は自分のために親が立ててくれ、空高く飜へしてくれた、鯉のぼりの偉觀は忘れてゐるが、今もまざまざ知つてゐるのは、どうしたわけか小川の底に沈んでゐるその鯉の殘骸たる金と黒とのきれ地である。或る人は音樂に特に最初の記憶がある。或る人は色彩に特に最初の記憶がある。何でもないことのやうであるが、ここにその人の兩親が與へた性質をも更に潜り、強く何ものかから受けついで來て、後々の生活をも支配する事になり、各人にとつて相違し、各人にとつて不變なる或る特質があるのでないか。それは虐《しひた》げられた暗い幼時の記憶や、特に教育や訓練によつての道徳的なものがほの見える幼時の記憶のそれとは全くこと違つて、美といふものに對するこの種の記憶は、自分ひとりでの心から躍《をど》り出たものであるから、一層その人の生得の性質、つまり個性といふものにも根據してゐるし、また至極單純な心で得られるものでもあるから、まだ西も東も知らない稚《いはけな》い心でも、後々《あとあと》までも美しい夢のやうに定《さだ》かに、心のなかに取り入れ納めることが出來る物ではなからうか。

 わたし等一家が港へ移住した頃、わたし等一家といふものは至極あはれな、みじめな、大工|生活《ぐらし》をしたものだと云ふが、それに關しては、わたしの記憶はまだまだ二三年後の年のものに、初めて薄ぼんやりと現はれて居る。それよりまづ最初のものとして殘つてゐるものは、あの海の記憶、つまり前述のあの荷車の旅で母に抱かれて行つた途上、多分吸ひ飽きた母の乳房もその時離し、眼を荷車の前方にやつて、折り柄山脈が切れはじめて横顏をあらはしにこやかに彼方《あなた》へとひろがるのを見たあの青い海の記憶である。八歳《やつつ》九歳《ここのつ》後から暗い魂に浸る運命となつたわたしに、この記憶がわたしの一生の或る頃の年代、つまりこの人生を絶望し見限つてゐた二十五六の厭世時代に、不意に蘇つて來てくれたことは、當時のわたしの救ひの主となつた。なぜなら此の美しい海の景色に瞬間に溺れたわたしの心の中には、このわたしといふ人間の持つて生れた性質が、その時そこらの道端に多分生え出してゐた青草のやうに、可愛らしく生きてゐるもので、決して厭世的なもの
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