した平野では到るところ田打ちを始めるからである。
 雜木林をチヨビチヨビ並べて一と筋につらなる村々の低空《ひくぞら》に、遠眼にもてらてらと白い艶《つや》を放して田打櫻《たうちざくら》の咲く見事さは、奧の日本を未だ知らぬ人には想像がつくまい。それは今も蝦夷の凄涼な俤を殘す此處いらの娘の齒のやうに、淨《きよら》かに白くかがやくのである。

  處女性の海

 故郷を二十年も離れて日本南方の海の明るさに感心し續けて來た感銘では、今故郷の津輕《つがる》の海を見たとて貧血な景色だと映る位の事で、特別な興味も無からうと思ひながら、G――公園の海水浴場へこれから行くといふ友達一家の人達と、A――市に滯在中の或る日、自動車で押出したことがあつたが、公園入口の松原で皆々下車するあたりから、わたしの見込みは崩れはじめた。まづ其處では東海道、關西の海岸の松原なぞは埃《ゴミ》つぽいと思はれるやうな松原が、小サツパリした姿をあらはして一と目《め》で私の眼の膜を拂つて仕舞つた。蒼《あをぐろ》い茂りを東北地方夏季中特有の優しみある空に、高くのびのびと差出してゐる松の廣い方陣、その方陣と方陣とのあひだに所々空間があつて、綺麗な芝生《カガハラ》で縁《へりど》つた野球グラウンド、テニス・コート、時には白ペンキ塗りの棒杭だの木の柵だのを曲り角に置いて、松原の中へ抛物線状に繞込《くねりこ》んで行くらしい散歩道、水底が水草で彩られて縞を成してゐる小さい川……。その内松原の一方が沼地に成つて、海岸の砂地に續く平面な場所が暴露する。も少し行くと、水平線の低い海が帶状《おびじやう》を成《な》して、砂地の膨れあがつた曲線の彼方に現れる。稜を鋭く何箇所か空《そら》に目がけて切り立つて、孔雀石と翡翠の明暗を隈つた半島が此方の海岸《かいがん》に詰め寄せるかのやうに鮮《あざや》かに浮出してゐる。そこは東北地方の風景といふ先入觀念を完全に拭《ぬぐ》ひとるに足る明るい澄んだ、そして又おとなしい畫面《ぐわめん》である……。

 海《うみ》に出るといふ私の衝動は失綜し、歩《あし》をなほ進めて行く事に何かしらんはにかみたい樣な意識が湧いて來た。二歳《ふたつ》の年齡《とし》から十六歳《じふろく》になるまで何度見たか知れないこの海を、わたしは畢竟|痴《ウヂ》ケデ空虚《ボヤラ》と見て居たのだ。そこの表情には春、雪解けの野原で銀色の草の若芽
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