りますか。
森。いいえ。外には絶板になっているのと雑誌に出た一幕物《ひとまくもの》と二つあるばかりです。どれも側《はた》から失敗の作だと云ったので、作者も跡を作らないのでしょう。しかし生意気な事を言うようですが、家常茶飯は成功の作かも知れないと思います。
記者。何故《なぜ》失敗だと云ったのでしょう。
森。ドラマチカルでないと云うのですよ。そりゃあヘッベルの作やなんぞを見る標準で見られては駄目でしよう。イブセンのような細工もありません。しかし底には幾多の幻怪なものが潜んでいる大海の面《おもて》に、可哀らしい小々波《さざなみ》がうねっているように思われますね。
記老。そんな作ですか。一体家常茶飯というのはどういうわけですか。
森。原語は日常生活です。しかしそう云っては生硬になるのが嫌《いや》です。家常茶飯と云うと、また套語《とうご》の嫌《きらい》がある。それでも生硬なのよりは増《まし》だと思うのは、私だけの趣味なのです。もっと優しい、可哀らしい、平易な題が欲しいのですが、見附《みつ》かりませんでした。
記者。この脚本に対する批評は伺われませんか。
森。それはしたくありませんね。しかしただ一つ申して置きたい事があります。それはこの脚本の主意でも何でもない。ただその中《うち》のエピソオドに現われている一事件です。主人公の画家の姉《ね》えさんとおっ母《か》さんとの間の関係です。姉えさんがおっ母さんに対して尽している処を見ますと、その形跡から見れば、天晴《あっぱれ》孝子です。よめにも行かないで、一身を犠牲にしておっ母さんを大切にしています。そこでその思想はどうです。あの弟との対話をよく読んで御覧なさい。われわれの教えられている孝という思想は跡形もなく破壊せられてしまっています。決して母だから大切にするのではないのです。そこで今ここに一人の葡萄茶式部《えびちゃしきぶ》がいると想像して御覧なさい。そしてその娘もおっ母さんを大切にしているのです。この娘は高等の教育を受けたので、英語が読めます。そこで現代詩人の作を読んでいるのです。この娘の思想は、脚本にある画家の姉えさんの思想と違っているでしょうか。同じでしょうか。一寸《ちょっと》これだけの事でも考えて見れば、深く考えて見れば、倫理上教育上の大問題です。ねえ。そうではありませんか。私の申す事が、あなたに好くおわかりになりましたか、どう
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