を上るでしょう。(紙巻の箱を出《いだ》す。)
令嬢。(紙巻を一つ取りつつ。)今日ばかりの事ですから、やっぱりヘレエネと、名を仰ゃって下さいまし。
画家。(驚きたる顔にて相手を見る。)今日ばかりとはどういうのです。あしたからはどうなるのです。
令嬢。あしたからでございますか。(間。)火を下さいまし。どうぞ。
画家。(手を動かさずに。)それでもどういうわけで。
令嬢。おやおや。自分で莨も付けなくちゃあならないのでございますのね。
画家。(慌ててマッチを付けて出《いだ》す。)どうぞ堪忍して下さい。(忽然《こつぜん》何物をか認め得たる如く。)ヘレエネと呼べというのですね。事によったらあなたは本当はヘレエネとは仰ゃらないのではないのでしょうか。
令嬢。(莨を試るように喫む。)いいえ。全くヘレエネというのでございますよ。
画家。そうですかねえ。どうも。
令嬢。あなたは莨を上りませんの。それにまあ兎に角お掛けなさってはどうでしょう。
画家。(急に腰を掛く。)さあ掛けました。
令嬢。(微笑む。)それでお楽《らく》ですか。
画家。(笑う。)楽ですとも。
令嬢。(徐《しずか》に部屋の内を見廻す。)ようございます事ね。
画家。何がです。
令嬢。この部屋が好いと申すのでございます。こういう処でどんな風にして絵をかいていらっしゃるというのが、想像が出来ますわ。(莨を捨て、両手を差伸べ、温《あたたか》に。)本当にわたくしは、このお部屋を拝見いたすのを、昨晩から楽《たのしみ》に致して参りましたのでございますよ。あなたのお身の廻《まわ》りにあるこんなものを残らず。
画家。(踊り上る。)本当ですか。
令嬢。(徐《しずか》に。)ええ。舞台を拝見しなくてはと思いましたのでございます。
画家。舞台とは。
令嬢。あなたとわたくしとの生涯を送った舞台の跡を拝見いたしたいと存じまして。
画家。生涯ですと。
令嬢。きのう一日に縮めた生涯と申すのでございます。
画家。まあ、何んという妙なお詞でしょう。
令嬢。(両手にて取りいたる画家の手を放し、椅子の背に寄りかかる。)わたくしの申す詞は明瞭《めいりょう》でないかも知れませんが、それは御勘弁あそばさなくてはいけません。言語というものはこういう風な事を言い現わすように出来ていないものでございますから。
画家。どうしたというのです。
令嬢。あなたは今日お互に顔を合せてどう
前へ 次へ
全41ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
リルケ ライネル・マリア の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング