《なが》めてゐた。
以前にはあんなに私をひきつけた畫本《ゑほん》がどうしたことだらう。一枚一枚に眼を晒《さら》し終つて後《のち》、さてあまりに尋常な周圍を見廻すときのあの變《へん》にそぐはない氣持を、私は以前には好んで味つてゐたものであつた。………
「あ、さうださうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶ひ出した。本の色彩をゴチヤゴチヤに積みあげて、一度この檸檬で試《ため》して見たら。「さうだ」
私にまた先程の輕《かろ》やかな昂奮が歸つて來た。私は手當り次第に積みあげ、また慌しく潰《くづ》し、また慌しく築きあげた。新《あたら》しく引き拔いてつけ加《くは》へたり、取り去つたりした。奇怪《きくわい》な幻想的《げんさうてき》な城が、その度《たび》に赤くなつたり青くなつたりした。
やつとそれは出來上つた。そして輕《かる》く跳《おど》りあがる心を制《せい》しながら、その城壁の頂きに恐《おそ》る恐る檸檬を据ゑつけた。そしてそれは上出來だつた。
見わたすと、その檸檬の色彩《しきさい》はガチヤガチヤした色の階調をひつそりと紡錘形の身體の中へ吸收してしまつて、カーンと冴《さ》えかへつてゐた。私には埃《ほこり》つぽい丸善の中の空氣が、その檸檬の周圍だけ變に緊張してゐるやうな氣がした。私はしばらくそれを眺めてゐた。
不意に第二のアイデイアが起つた。その奇妙なたくらみは寧ろ私をぎよつとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、何喰はぬ顏をして外《そと》へ出る。――
私は變にくすぐつたい氣持がした。「出て行かうかなあ。さうだ出て行かう」そして私はすたすた出て行つた。
變にくすぐつたい氣持が街の上の私を微笑《ほほえ》ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆彈を仕掛《しかけ》て來た奇怪な惡漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆發をするのだつたらどんなに面白いだらう。
私はこの想像を熱心に追求した。「さうしたらあの氣詰《きづま》りな丸善も粉葉《こつぱ》みじんだらう」
そして私は活動寫眞の看板畫《かんばんゑ》が奇體な趣きで街を彩《いろど》つてゐる京極《きようごく》を下《さが》つて行つた。
[#地から1字上げ](大正十四年一月)
底本:「檸檬」十字屋書店
1933(昭和8)年12月1日発行
1940(昭和15)年12月20日第2刷発行
初出:「青空」
1925(大正14)年1月
入力:高柳典子
校正:小林繁雄
2006年7月20日作成
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