螺旋棒《らせんぼう》をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋《かぎや》の二階の硝子《ガラス》窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀《まれ》だった。
 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬《れもん》が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈《たけ》の詰まった紡錘形の恰好《かっこう》も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛《ゆる》んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗《しつこ》かった憂鬱が、そんなものの一顆《いっか》で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心
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