泥に塗《まみ》れたまままた危い一歩を踏み出そうとした。とっさの思いつきで、今度はスキーのようにして滑り下りてみようと思った。身体の重心さえ失わなかったら滑り切れるだろうと思った。鋲《びょう》の打ってない靴の底はずるずる赤土の上を滑りはじめた。二間余りの間である。しかしその二間余りが尽きてしまった所は高い石崖の鼻であった。その下がテニスコートの平地になっている。崖は二間、それくらいであった。もし止まる余裕がなかったら惰力で自分は石垣から飛び下りなければならなかった。しかし飛び下りるあたりに石があるか、材木があるか、それはその石垣の出っ鼻まで行かねば知ることができなかった。非常な速さでその危険が頭に映じた。
石垣の鼻のザラザラした肌で靴は自然に止った。それはなにかが止めてくれたという感じであった。全く自力を施す術《すべ》はどこにもなかった。いくら危険を感じていても、滑るに任せ止まるに任せる外はなかったのだった。
飛び下りる心構えをしていた脛《すね》はその緊張を弛《ゆる》めた。石垣の下にはコートのローラーが転がされてあった。自分はきょとん[#「きょとん」に傍点]とした。
どこかで見ていた人はなかったかと、また自分は見廻して見た。垂れ下った曇空の下に大きな邸《やしき》の屋根が並んでいた。しかし廓寥《かくりょう》として人影はなかった。あっけない気がした。嘲笑《あざわら》っていてもいい、誰かが自分の今|為《し》たことを見ていてくれたらと思った。一瞬間前の鋭い心構えが悲しいものに思い返せるのであった。
どうして引返そうとはしなかったのか。魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。――破滅というものの一つの姿を見たような気がした。なるほどこんなにして滑って来るのだと思った。
下に降り立って、草の葉で手や洋服の泥を落しながら、自分は自分がひとりでに亢奮《こうふん》しているのを感じた。
滑ったという今の出来事がなにか夢の中の出来事だったような気がした。変に覚えていなかった。傾斜へ出かかるまでの自分、不意に自分を引摺《ひきず》り込んだ危険、そして今の自分。それはなにか均衡のとれない不自然な連鎖であった。そんなことは起りはしなかったと否定するものがあれば自分も信じてしまいそうな気がした。
自分、自分の意識というもの、そして世界というものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くような
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