またあまり堪へ切れなくなると、私はむらむらと前後を忘れて、「馬鹿! また嘘を云つてる。」などゝ怒鳴りつけずにはゐられなくなる。――つまり私はその時、情ない氣持で歸つて來た弟にこれを浴せかけたのだつた。

「またお前も意氣地なしだ。それで默つてゐるつてことがあるかい。何故一つでも撲り返さなかつたのだ。」
 私は弟の苦しい胡麻化しをその場合許せばよかつたのだつたが、その卑怯な嘘を感じると私は意地惡くなつて、ついそんなつかぬ[#「つかぬ」に傍点]ことを云つてしまつたのだつた。一つはあまりの口惜しさから。
「……でも石を一つ投げてやつた。……」
 その時私は、その聲の弱さに、また顏の頼りなさに、私の嫌な嫌な、眞赤な嘘の證據を見たのだつた。
 私の先程から積つてゐた不愉快は、それに出喰はすと新たに例の不愉快を加へて一時にはづん[#「はづん」に傍点]で來た。そして猛烈なはけ[#「はけ」に傍点]口を求めた。私はこの壓力で爆發する樣に「馬鹿※[#感嘆符二つ、1−8−75]」をやつてしまつた。

 私はこれを思ひ出すと、その時の弟が可哀さうで堪らなくなる。本當にそ[#「そ」に「(ママ)」の注記]うだ。
 弟はそんなことでも云つて見なければ、あまりに口惜しく、自分がみぢ[#「ぢ」に「(ママ)」の注記]めだつたにちがひない。
 私がその時それを信じてやれば幾分かは、彼の無殘に傷けられた心も慰められただらうのに。
 私はその時の弟が可哀相でならない。
 惡いことをしたと思ふ。
 
      *     *    *

 私がその三年程も以前のことを思ひ出したのは、今日往來で子供の喧嘩を見てからのことである。私はその喧嘩を見ていろんなことを思つた。その思ひの辿るまにまにふとその記憶にぶつかつたのだつた。
 その喧嘩といふのはかうである。

 私は學校から熊野神社の方へ歩いてゐた。
 雨模樣の空の間から射し出す太陽がいやに蒸暑くてあの單調な路が殊更長く思へた。顏や首から油汗がねつとり滲み出てゐたが、手拭を忘れて來てゐたので、と云つても洋服の汚れた袖で拭くのはなほのこと氣味がわるく、私はやけ氣味に汗まみれであるいてゐた。晝過ぎだつた。道は小學校の生徒が四五人と中學の生徒が二三人と、そして私だけだつた。埃にまみれたポプラの葉が動かうともしない。

 はじめ自分はそれをほかの事だと思つてゐた。――が、それが喧嘩だつた。
 一人の運動シヤツを着た子供が小學校歸りらしい子供とつかみあつてゐる。中學の生徒が二人程、あまり熱心でもなくそれを留めや[#「や」に「(ママ)」の注記]うとしてゐる。
 歩きながら見てゐると、どうやら運動シヤツの子供の方が優勢らしく見えた。片方の子供はいかにも弱さうだつた。
 なんとか云つてシヤツの兒が相手の脛のあたりを蹴つた。するとも[#「も」に傍点]一人は横面を撲つた。いかにもそれが頼りなささうで撲つたとは云へない位のものだつた。攻撃のためではなく自分の威嚴のため止むを得ずその形をしてゐる。――撲りながらも心では「もうこらへて呉れ。」と云つてゐる――といふ風に見えた。
 一方は毒々しい程積極的だつた。弱い者[#「者」に傍点]いぢめをしてゐるにちがひなかつた。
 一瞬間私は、私が幼い時經驗した無念さや恐怖を、やはりそんなに迫害されてゐる私の姿を憶ひ浮べた。
 さき[#「さき」に傍点]の方は顏を紅潮させてゐて、それが變に歪んでゐた。泣き出しさうにも見えた。然し消極的にせよ一つ一つ報いてゐた。一つに一つ。私はそれがいぢらしくて見てゐられない樣な氣がした。もうその上續けさせておき度くなかつた。
 とめてやらうと思つて獨でに歩調を速めた時中學生等がやつと彼等をひき離した。
 小學生の方は直ぐに、顏を少し伏せる樣にして走り去つた。――それも片足だけでけんけん[#「けんけん」に傍点]をしつゝ一種踊る樣な恰好を身體につけながら。
 私はその瞬間そんな恰好をせずにゐられないその兒の氣持が、私自身の氣持の樣に、ぐん[#「ぐん」に傍点]と胸へ來た。
「敗けて逃ぐるのんか。何や、泣てやがる。」とそのシヤツの兒がその背後から叫んだ。
 そしてそこに立つて見てゐた、その小學生の連れらしい、それもやはり學校歸りらしく鞄を下げた二三人が、獨りで走り去つた友達を追ふともなく、その後からその方角へ歩いて行つた。
 ――それは時間にすれば僅か二分かそこらのちよつとしたことだつた。
 然し私にはそれがびん[#「びん」に傍点]と響いた。
「男らしさ」への義理立てだけといつた風に振り上げられたその兒の弱々しい拳や、歪められた顏や、殊にけんけん[#「けんけん」に傍点]で踊る樣にした恰好が何度となく眼に浮んで來た。
 その兒がいぢらしくて堪らなかつた。
 何だかその兒の顏が私の一番末の
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