電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。圧しつけるような暗い建築の陰影、裸の並樹、疎《まば》らな街燈の透視図。――その遠くの交叉路《こうさろ》には時どき過ぎる水族館のような電車。風景はにわかに統制を失った。そのなかで彼は激しい滅形を感じた。
穉《おさな》い堯は捕鼠器《ほそき》に入った鼠を川に漬けに行った。透明な水のなかで鼠は左右に金網を伝い、それは空気のなかでのように見えた。やがて鼠は網目の一つへ鼻を突っ込んだまま動かなくなった。白い泡が鼠の口から最後に泛《うか》んだ。……
堯《たかし》は五六年前は、自分の病気が約束している死の前には、ただ甘い悲しみを撒《ま》いただけで通り過ぎていた。そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好《しこう》や安逸や怯懦《きょうだ》は、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。が、彼の思索や行為はいつの間にか佯《いつわ》りの響をたてはじめ、やがてその滑らかさを失って凝固した。と、彼の前には、そういった風景が現われるのだった。
何人もの人間がある徴候
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