》ぶった老婆が緩《ゆっく》りゆっくり歩いて来る。
 堯《たかし》は長い坂を下りて郵便局へ行った。日の射し込んでいる郵便局は絶えず扉が鳴り、人びとは朝の新鮮な空気を撒《ま》き散らしていた。堯は永い間こんな空気に接しなかったような気がした。
 彼は細い坂を緩りゆっくり登った。山茶花《さざんか》の花ややつで[#「やつで」に傍点]の花が咲いていた。堯は十二月になっても蝶《ちょう》がいるのに驚いた。それの飛んで行った方角には日光に撒かれた虻《あぶ》の光点が忙しく行き交うていた。
「痴呆《ちほう》のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈《かが》まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子や童女達であった。
「見てやしないだろうな」と思いながら堯は浅く水が流れている溝のなかへ痰を吐いた。そして彼らの方へ近づいて行った。女の子であばれているのもあった。男の子で温柔《おとな》しくしているのもあった。穉《おさな》い線が石墨で路に描かれていた。――堯はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。不意に心が揺れた。揺り覚まされた虻が茫漠《ぼうばく》とした堯の過去へ飛び去った。その麗《うらら》かな臘月《ろうげつ》の午前へ。
 堯《たかし》の虻《あぶ》は見つけた。山茶花を。その花片のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを言って急いで自家《うち》へ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍しい午前の路であった。そんなときでもなければ垣間《かいま》見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。そう思ってみて堯は微笑《ほほえ》んだ。

 午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。穉《おさな》いときの古ぼけた写真のなかに、残っていた日向《ひなた》のような弱陽が物象を照らしていた。
 希望を持てないものが、どうして追憶を慈《いつく》しむことができよう。未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。そして今朝の思いつきもなんのことはない、ロシアの貴族のように(午後二時頃の朝餐《ちょうさん》)が生活の習慣になっていたということのいい証拠ではないか。――
 彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。
「今朝の葉書のこと
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