き度い。廻轉して朝と晝と夜を見せて呉れ、航海しては春・夏・秋・冬を送つてくれる地球だ。圓い臺《うてな》の上になり下になり、下になつても頭へ血が寄るといふことなく、大地を踏めばいつも健康だ。杳かな創世の日から勞働爭議の今日に至るまで、積みかさね積みかさねられたものがそこにある。偉大な精神は將星で、私はオノコロ島に産れて來た志願兵だ。オ一二、オ一二、太郎は歩いた。昂奮して。
廣告塔があつた。ドラツグがあつた。唐物屋があつた。本屋があつた。賑かな街で電車が通つた。キヤブが通つた。太郎は子供の時の乘物づくし[#「乘物づくし」に傍点]を憶ひ出した。あの透視法を誇張した畫派を憶ひ出すことが、街と乘物づくし[#「乘物づくし」に傍点]を一度に生かした。冬着新柄を見た。乾物屋を見た。玩具屋を見た。煙草店を見た。太郎の精神は頓に高揚して、妖術が使ひたくなる程だつた。
「やう、やう。」
「やう。」
これは太郎の友達だ。太郎は一錢玉を五つ持つてゐたぎりだつたので、友達の五十錢貨幣を、一錢で賣つて貰つて富を作つた。それでまぐろの壽司を食ふとまた歩き出した。
待合のある小路へ入つた。三味線がきこえて若い女の聲がはしやいだ。双肌脱ぎで化粧をしてゐる女があつた。嬋妍に漲つて歩いてゆく女があつた。そこを出ると暗い裏通りへ出た。柔術指南と骨つぎの看板をあげた道場から出た若い男は自動車屋へはい[#「い」に「(ママ)」の注記]つた。支那料理屋で蓄音器が鳴つてゐた。今度は靜かな切り通しになつてあたりは一時に祕まつた。
阪を登つて立ち小便をしながら街々を見おろした。蟲が鳴いて街には靄がおりてゐた。小便が汚なかつたから場所を變へて、眼を夜景のなかに吸ひこませた。黒い森が寢てゐる。甍が寢てゐる。いくつもの窓は起きてゐた。遠くの窓に女が立つてゐる。電柱は紅玉の眼を持つてゐる。太郎は感に堪へた。
續く街は靜かであつた。ピアノも鳴つては來なかつた。あそこは宵の口で此所は深夜だ。さては緯度をとび越えたのか。時計を進めねばなるまい。頭が變だ。頭が。木戸を開くと喜ばしい思想共は押すな押すなでこぼれて來る。「よし!」と木戸を閉じ[#「じ」に「(ママ)」の注記]太郎はまたも歩き出した。秋だ。秋だ。覺えなかつた面白さだ。へたばるまで歩いて下宿へ歸り、歸つてからはこの思想共を一匹宛出して來て一匹宛演舌させてやらう。一晩かゝ
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