。しかし僕はその平明な境地の自由さに、心憎さも、そして幾分の不滿も持つてゐることを表明したい。これは最近殊に氣持に無理をしてゐる僕自身から出て來る注文かも知れないが、僕は淺見君を驅つてもつと不自由な無理のある境地へ追ひ上げたいと思ふものの一人である。
 いつか百田宗治氏に會つたとき、僕は次のやうな言葉を意味深く聞いた。それは、藝術家が憂鬱になるのはいつも自分以上のことを表現しようとするからだ。世間の人は自分の身に合つたことに終始してゐてさうした憂鬱を持たない。どうやらこれの方がほんたうの生活らしい。――
 これは反語のやうにもあるひはさうでないやうにも話された。しかしそれは百田氏自身の心境に依つていづれともなり得る。だがこの言葉で大變憂鬱になつたのは僕自身だつた。僕は云はば不純なさうした憂鬱にいつも捕はれてゐる。それが生活に反響し、作品に反響し、また生活に反響し返へして來ることに思ひ及べば、僕はうたた憮然たらざるを得なかつた。この氣持にはもつと鋭い分析が要る。僕はまだそれをしてゐない。しかしこの僕のこの氣持が常に作品の上に無理を重ねてゐることから起つて來たことは爭へない。さうした僕自身である。その僕からかの平明な坦懷な淺見君の作風に接するとき、僕に起る氣持が、心憎さと同時にある種の齒痒ゆさであることは、淺見君にも了解して貰へることだらうと思ふ。もつと冒險をして下さい。僕が淺見君に抱いてゐる今云ひ度いことはそれだけだ。――そしてこの氣持は最近文藝都市に出た短篇「三人」が僕に刺衝した作者への要求である。
 淺見君の作品に就いてはもつと詳しい、種々僕自身としての回顧や感想がある。しかしそれはいづれ他日期を見て筆をとり度く思ふ。
[#地から1字上げ](昭和三年七月)



底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「文藝都市」
   1928(昭和3)年7月号
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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