い。そして若し彼女等が此の世にゐないのだつたら…………どちらにしても、靴の音を聞く苦しみから、自分は全く解れることになるのだ。――
第三の手紙は、最初と次の手紙の間隔より遙かに短い、一月の間をおいて投げ込まれた。
そしてその音も、次々小さく、然も段々質が固く冷くなつて來た。
(子供に瀬戸物の茶碗で飯を食はせるな。その音が聞えて來るのだ。その音が俺の心臟を破るのだ。)
○
彼女が夫の上に氣遣つてゐること、そしてまた自分達の上に願つてゐること。夫の手紙はそれらのことに一筆だも觸れてゐない。妻は昔にかわ[#「わ」に「(ママ)」の注記]らない夫の冷酷をそのなかに見た。然し、何といふ苦しみ樣だらう。不自然な老いが此度の手紙には察せられるではないか。
――そして短い文面の不思議に嚴かな力は、此度も彼女をその命に從はせるのであつた。
彼女は薄氷の上に立たされる思ひで生活してゆかなければならなかつた。夫の今にも破れそ[#「そ」に「(ママ)」の注記]うな心臟――それを預つてゐるといふ意識の如何に重いこと。
夫はもう死んでゐるかも知れない。そんなことも彼女は思つた。死んでゐるどころか、嘗てそんな夫を持つてゐたといふそのことさへ、誰かに左う思ひ込まされてゐるばかりのことではないのか。…………
見て、彼女はギクとした。娘が勝手に茶碗を取出して來てゐる。
「いけない!」
奪ひ取るが早いか、彼女はそれを庭石の上へ激しく投げた。夫の心臟が破れる音。突然彼女は眉毛を逆立てて自分の茶碗を投げつけた。しかしこの音こそ夫の心臟が破れた音ではないのか。彼女は食卓を庭へ突飛ばした。この音? 壁に全身をぶつつけて拳で叩いた。襖へ槍のやうに突きかかつたかと思ふと、襖の向ふ側へ轉り出た。この音?
「かあさん、かあさん、かあさん」
泣きながら追つかけて來る娘の頬をぴしやりと打つた。おお、この音を聞け。
その音の木魂のやうに、また夫から手紙が來た。これまでとは新しい遠くの土地の差出局からだ。
夫の心臟は破れずにあつた。彼女は高い喜びと深い苦痛を同時に感じた。
(お前達は一切の音をたてるな。戸障子の開け閉めもするな。呼吸もするな。お前達の家の時計も音を立ててはならぬ。)
おゝ何といふことを! そして「お前達の家」と遂に夫は呼ぶ積りなのか。
「お前達」と彼女は口に出して呟いて見た
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