時分になると情けなくなるんだ。空が奇麗だろう。それにこっちの気持が弾まないと来ている」
「呑気《のんき》なことを言ってるな。さようなら」
 行一は毛糸の首巻に顎を埋めて大槻に別れた。
 電車の窓からは美しい木洩《こも》れ陽《び》が見えた。夕焼雲がだんだん死灰に変じていった。夜、帰りの遅れた馬力が、紙で囲った蝋燭《ろうそく》の火を花束のように持って歩いた。行一は電車のなかで、先刻大槻に聞いた社会主義の話を思い出していた。彼は受身になった。魔誤《まご》ついた。自分の治めてゆこうとする家が、大槻の夢に出て来た切符売場のように思えた。社会の下積みという言葉を聞くと、赤土のなかから生えていた女の腿《もも》を思い出した。放胆な大槻は、妻を持ち子を持とうとしている、行一の気持に察しがなかった。行一はたじろいだ。
 満員の電車から終点へ下された人びとは皆働人の装いで、労働者が多かった。夕刊売りや鯉売りが暗い火を点《とも》している省線の陸橋を通り、反射燈の強い光のなかを黙々と坂を下りてゆく。どの肩もどの肩もがっしり何かを背負っているようだ。行一はいつもそう思う。坂を下りるにつれて星が雑木林の蔭へ隠れてゆ
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